だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#379 ファイト!

 

なにがどうというんじゃない。

右のものを左に動かしたいわけではない。
道路の真ん中に石を置きたいわけでもない。
じゃあなにをしたいんだ、なにをしたかったんだ、何度も繰り返された問いをまた愚かしくも繰り返してみる。
 
朝が来て、働いて、よれよれになって、
酒の海に溺れて、なんだか高揚した気分になる。
調子のいいことを言って、調子っぱずれの歌を歌う。
魂の居場所を教えてくれよ、魂の在り処を開けといてくれよ。
 
小さな声で、つぶやく、
誰にも聴こえないように、歌う。
ファイト、ファイト。
 
理解しあえたと一瞬でも思えたらそれでいいのか、
理解しようと、理解から程遠い人とずっと溝を埋めようと努力しつづけるのがいいのか、
どっちもどっちのような気もするし、
どちらにも意味はあるような気がするけど、おれの体は2つに引き裂かれたままで、宙ぶらりんでベロを出してる。
 
また素敵な人があっちの世界に旅立った。
残された人たちの世界しかこの世にはないのだと何度言い聞かせても、
やっぱり涙は止まらない。
窓の外から聞こえる雨は、誰かのシュプレヒコールだ。
 
小さな声で、自分に歌う。
このくだらないオレの人生も誰かに届いてるのか?
ファイト、ファイト。
 

#378 グダグダ考えても仕方ないのにグダグダ煮詰まる男が此処にもいたねえ。

 
自分なりにその場その場では頑張ってきたつもりだ。
でも、医者人生として、確固たる方針やらビジョンがあったのかというと全然そんなことはない。
 
大学に帰ってきたから、ヒトがしてないという理由で「神経因性膀胱」に取り組んだだけだし、
上司にうるさく言われたから、人一倍臨床論文の投稿をしただけだ。暗かったなあ、あの頃は。
でも、結局開業するにあたって、
それまでの泌尿器科人生で、色んな形で少しずつ携わってきた透析を、
泌尿器科の先生にではなく、松山赤十字の腎臓内科のオーソリティ・原田先生に教えてもらったから、
そして開業してからいろんな透析をされてる先生方が助けてくださったから、
今があるのだとも思う。
そう考えるとなんだか不思議なものだ。
 
自分も、大学での臨床生活の傍らに、いろんな基礎の教室を巡ったり、教授やら大学院出(当時はちゃんとした大学で研究教えてもらったヒトなんて同門にそうそういるわけでもなかった)の先生にあれこれ聞いて、それなりに研究をした。
研究もしんどかったが、まとめることはさらにしんどかった。
なんとしてでも英語で学位を取ろうと思っていたので、英文投稿したのだけど、やはりrejectされたり、実験を追加しろとか指示されたりもした。それを書けもしない英語で答えて、数回やり取りして、なんとか採用になった。
開業の準備をしながら、日赤で腎臓内科医として働きながら、そのやりとりやら英語の手直しは、夜の透析当番の合間に少しずつおこなった記憶がある。重たいMacノート、その時使うだけなのに毎日リュックに入れて担いで、自転車で通勤したよなあ。
開業してからようやく学位審査を受けて乙種博士号というものを頂いた。
大学院博士は甲種であり、そちらのほうが格上だということを後に知った。まあ、どうでもいいことだけどね。
 
こうやって書き出すと、それなりに頑張ったのかなあとも思うけど、それだけなのかなあとも思う。
自分の中ではなんだか過去になったようなだけの気もするし、血と肉になってるからいいのかなと言う気もする。
わかんない。
 
医学は日進月歩で進んでおり、開業医の自分は、マシンガンの前で日本刀を振り回してるという感じに思えるときもしばしばだ。
 
6月6日の講演は、岡山大学の准教授のセンセイによる、
スマートかつアカデミックで、その上にウイットに富んだものだった。
「難治性尿失禁に対するこれまでの取り組みと新たなる治療戦略」岡山大学 泌尿器科病態学 准教授 渡邉豊彦先生)
彼が泌尿器科として歩んできて、これからもアカデミア(大学のヒトという意味)の一員として歩む人生と、
自分の開業医人生を比較すること自体が意味のないことであるということは重々承知だ。
でもなんかうすら寒い風が吹いたんだよね。
 
音楽について考えてることと、昔学問について考えてたことがなんだか似ているような気が最近している。
音楽は、果てしない。
汲めども汲めども水は深淵から湧いてきて、その味はさらにまろやかである。だからもっとうまく底から掬えるように、理論を学び、それを手先で再現できるように練習する。
そうやって手術も学んだ。解剖を頭におき、メスを持ち、臓器の間を丁寧に剥離してゆく術も。
今、だから、果てしもない高みにある音楽はとてもつらいのに楽しい。
 
久々に、手術をした。
今の病院では手術は一人なので、ほぼしていない。
開業当初はシャントも作ったり補修もしていた。それなりの器用さを自負していた。でもいかんせん時間がない。
外来の時間までに終わらない手術はやはりされるべきではないのだと思う。
なのにまだメスを置けないでいるところが愚かしいところだ。
なわけで、パイプカットをしたのだった。
 
初稿を書いてからずいぶん時間がたったので、なにか核から離れていってる感じだけど、
自分たち開業医と、やっぱり第一線で臨床をバリバリやってたり研究をしたりしてる医者とは、別物だと思うんだよ。でもどっちも必要なんだろう。
一人の人間がすべてを背負い込む必要はない。だから医者でもわからないことはたくさんあるのはそれはもう事実として認めて、その上で自分のpositionでやるしかないんだと思う。
 
外科医(もとでしょうか^^;)としての自分、泌尿器科としての自分、透析医としての自分、開業医としての自分、経営者としての自分、やっぱり今日もうすら寒い風の中を、ああでもないこうでもないもういいかいや待てよとか進んでくしかないんだろうね。

 

#377 54歳からのピアノ その9 「新しい電子ピアノを買いますよ」


pianogirl

ピアノを始めるきっかけは書いたような気がする。
 
近隣の開業医のセンセイが51歳で急逝された。彼は音楽に造詣が深く、シャンソンとかのボーカリストもされていた。ほんとに急なことだった。葬儀の場で彼のliveのビデオが流れていた。かっこいい。でも彼はもうこの世に居ないのだという巨大な喪失感と虚無が押し寄せて、たまらなくなった。亡くなる2w前は一緒に飲んだのに。まあ俗に言う生き急いだ感のある人ではあったけど。人生の時間なんて誰にも規定なんて出来はしない。
 
自分もその前に、50歳に踏み込んでからもう一度音楽というものに向かい合いたいと思って、いろいろ手を出したところで、それさえもがアップアップだった。
ピアノも実はやりたいと思っていた。
でもこれ以上楽器数を増やすことは困難だったので、自分で定年と定めている65歳から始めようと言い聞かせていたのでした。
なのに、人生に残された時間は限りあるという現実を叩きつけられて、居てもたっても居られなくなったのだ。
 
うちに、ちょうど子供が小学校かその前からすると言うので購入したYAMAHAの電子ピアノ「クラビノーバ」があったのも後押しした一因ではある。
なわけで、例の島村楽器で、卒業したての可愛らしいあゆみ先生に教わることになった。
これが「54歳からのピアノ」というわけである。
 
それからもう数年たったのに、皆様にお聴かせできるかというとそんなことは全然ない。
悪戦苦闘の日々である。
でも、一時はもういいかと思ったのにやはり続いているのである。
 
岡山の実家にも実はグランドピアノがあった。
うちの死んだ親父は、チェロを弾いていた。その頃日本の円は力も持っておらず、日本も決して強い国ではなかったのだと思う。初任給をつぎ込んで(当時付き合っていたこれまた死んだおふくろの了承を得て)スズキのチェロを買ったらしい。たぶん彼にとって、音楽のある生活というのは、理想だったのだろう。なので、誰も弾けるヒトは居ないのに、グランドピアノを購入した。一時期は実家にトランペットもあったなあ。
親父の晩年は、月に一度、pianoを教えているような方にお金を払って自宅まで来ていただいて、グランドピアノの演奏で、ブラームスとかを弾いていたらしい。お世辞にもうまいとはいえなかった気がするが、今思うと、自分もバイオリン再開したわけだし、実家の「グランドピアノ」刷り込み効果もあってか、54歳でpiano始めたし、まあやはりおんなじような血が流れてるのかもしらん。
 
ではなぜ音楽を続けるのか?
 
それは嬉しいときに嬉しい音楽をちょっと座って奏でたり、悲しいときにはバーボンのグラスでも片手において、渋いブルースを弾いてみたりしたいからなのかなあと最近思った。
酔っ払って叫んだり、酔っ払ってついつい人恋しくなって、一人で商店街の柱に持たれて地べたに座って、目の前を過ぎてゆく若者たちを眺めてるときに思う、寂寥と孤独を伴った不思議な開放感と、それはある種似ているのかもしれないなあなどと・・。
 
でも、その流れてきた音が、自分の手によって奏でられた音が、自分をある程度納得させられないとね、いかんのですよね。そのための技術であり練習であり、その上での演奏なんだと思うんですよね。
脳内で鳴ってる音の5%くらいが自分の手で再現できたら、それで十分なんですよね!いやほんと。
 
そんなわけで、15年位たって、今回、あたらしいクラビノーバを購入することにしました。
 
CLP685という機種で、やっぱりYANAHAさんである。
グランドピアノのタッチを再現しているというのがどうも売り物らしい。
島村楽器の売り場で何回か弾かせてもらったのだ。
今の楽器は古いせいか、キーが反応してくれないことが多いのだ。すごく踏み込みが硬い感じ。まあそれと自分の下手さは関係などありはしないんだけどね。
新しい楽器はいい。気分まで浮き浮きさせてくれる。
自分で買うはじめてのピアノってことでもあるしね。
 
まあ、それがもうちょっと生きたいという理由になればそれもありかな。
 
 

#376 Bye Bye,

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ある一点で物事に区切りをつけて、これで終わりにしようという意味もわかる。
でも人生に区切りなんてない、連綿と続いていくだけだ。
誰かが死んでも、このおれがこの世から滅しても。
また日は昇り日は沈むだろう。
 
区切りをつけようという「意思」くらいかな、今の自分がなんとか尊重したいと思えるのは。
たしかにおれも言ってるよなあ、
「もうここで一回線をひいとこうよ、あんたの気持ちはわかるけどさ」、なんてねえ。
 
骨になって、墓に入る。
死んでからしばらくして、決まった日時が来て、坊主がやってきて読経する。
そんなセレモニーが続いていく。
そのspecial dayに、そういった行為が引き金になって、故人を思い出すことになるのだということの意味を否定しているわけではない。
 
うちの両親たちは自分の意志で「無宗教」を選択した。
なにも決まり事もないことに、人々はかなり戸惑ったと思う。
だって決まり事なんていらないよ、って、宣言しちゃったんだからね。
NO仏壇。NO戒名。
一応墓はあるよ。二人の墓がね。
でもその墓の、18年前から鎮座してるおふくろの横に、親父の骨を置いたということで、それで完結していいんだと思う。
 
それでもすったもんだの中、
2017/05/28、岡山で「お別れの会」が終わりました。
86歳で、一人の人間としてなくなった父の、おれは息子であります。
彼らの息子二人は、立派なのかどうかわかりゃしませんけど、あなた方の息子として胸を張って生きてますからね。

#375 船を出す。

 

朝。

 

疲れてますねえと

O先生に言われて「そりゃあ疲れてますよ」と答えて、心の琴線があっけなく切れる。

なんか堤防が決壊して、溢れ出す感じ。

それでも仕事は始まり、こうして終わる。

 

もうダメかも。

 

日々消費されてゆく自分がもう嫌になっている。

消費社会だよね、資本主義だもんな。

自分も消費して消費されてゆく。

その消費って行為が社会還元なんだろうし、それでいいのだと思うよ。

うんざりってほうが的確かな。

いやいや、自分のことを卑下しだすのは実によくない傾向であります。

 

でも、もうそろそろ限界かもしれないと思うことが多くなってきたのも事実だ。

 

さて、自分ちの昨日のうちごはんは、蒸し鍋を二種類別の味付けで作る。

 

片一方は、豚肉とチーズのワイン蒸し鍋。

白菜、えのき、しめじ、しいたけ、アスパラ、ミニトマト、豚肉、チーズ。

 

もう一方はやや和風の、チンゲンサイと豚肉の酒蒸し鍋。

味付けは塩コショウと醤油少々と、梅干しをちぎって。酒で蒸す感じです。

洋風の方の残りでチーズリゾット。

 

うまうま。

 

前述の「ホクサイと飯さえあれば」の主人公・山田ブンちゃんの、

飯を前にしたしあわせ・ドヤ顔を思い出してみようと思うんだよ。

 

旨いものを作って食う一見無駄にも見える時間は、敬虔な祈りにも似ているなあ。

 

暗転か、流転か、好天か、荒天か。

 

船を出す。

 

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#374 「◯◯◯◯と飯さえあれば」

ホクサイと飯 (単行本コミックス)

 
ホクサイと飯さえあれば」という深夜ドラマをまとめてみる。
 
原作のマンガに聞き覚えがあったからだ。
原作のマンガは好評だったのか、現在も主人公・山田ブンの美大生時代という8年前の設定で連載しているそうだ。
 
自分が読んだのは漫画家山田ブン設定であり、ドラマの方は8年前設定の方だ。
なんだか、ほんわりするドラマではあった。
こんな女子大生のひとり暮らしは今時もやっぱりあるのかなあ?
 
「私の頭のなかではもう完全にレシピは出来上がってるの」っていうブンちゃんの言葉が可愛らしい。
でもやっぱり食事を作って美味しいものを共有するということは、人類だけにある楽しみなんだろうなあと思った。
 
親子丼作って、皿に盛って、
さらにその上に黄身を乗っけるという、
「追い卵」!
この手法にはさすがの自分もよだれがあふれて、
次回は是非やろうと誓ったのでありました。
 
ブンちゃんの隣りにいて、良きアドバイザーであり、人生の師であり友人であるのが、
ぬいぐるみの「ホクサイ」だけど、
 
「◯◯◯◯と飯さえあれば」の「◯◯◯◯」に入れるとしたら、なんなんだろうねえ?
 
恋人の名前?
趣味の名前?
泌尿器科と飯さえあれば」にはならんなあ、、
 
まあその時そのときのホクサイってことで、自分は節操ないのがとりえにしときます^^;
 
 

#373 電話のむこう 空と桜と 愛を語りて ちりぬるを

 

IMG_3307

ANA figures

Close-up of Brown Hair ANA stewardess

PA1982.180.40, Pioneer Airlines Stewardesses

 
やはりそうそう簡単に忘れられるものではない事を知る。
 
電話の向こうからあの娘の声が聞こえる気がした。
かつて空に勤めていたあの娘は、病気で地面に縫い付けられてた。
だから、彼女はこの世からいなくなったけど、また空に帰って好きな仕事に復帰できたんだって思うことにしたんだよ。
 
都々逸というものがある。
 
ウィキペディアにはこう書かれていた。
 
元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 
主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
 

 


ほほぉ、
 
てなわけで、桜ももう散ってしまおうとしてますけど、
「桜」のお題を頂いたので、

桜の向こうの青い透けた空と、その彼方を飛ぶ飛行機と、あの娘とを詠ってみました。
 
電話のむこう
空と桜と
愛を語りて
ちりぬるを
 
それを三味線の師匠が目の前で詠ってくれたんだよ。
嬉しいな。