だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#383 Talk about….2017/07/07 VOL.4.今宵のreason to live.

 

随分酔っ払ったな。
いろんなことをくっちゃべったな。いろんな耳にしたくないこともたくさん聞いたな。
それが人生だなんて一括りにはできないけど、その人の人生は結局その人が長い時間かけて作り上げてきたものなんだな。
だから簡単には方向修正できないのかもしれないけど、舵を操れるのは、どっかから現れた天使でもなんでもなくって、その人でしかないんだよ。
だから、きみの耳に入れたくないコトバをおれは喋るかもしれないけど、でもきっとそのコトバはもうきみの耳に届くことはないんだろうな。
悲しい話なのかな。これって。しょぼい話なのかな。これって。
 
仕事っていうやつが占める割合はかなりでかい。仕事がある種人生と言っても過言ではない。仕事のため、仕事のため。では長い月日をかけて、作り上げてきた仕事って、そんなに些細な事で放棄していいのかな。いつまでも現役でいられるわけはない。いつまでも人の役に立てるなんておこがましすぎる。自分がこの世に生まれてきたことに意味はあるのか。なんのために生きて、なんのために死んでゆく。唯生きて、笑って泣いて、糞ひって、死んでくだけの人生という話もある。それも上等だ。ことさらえらそうにするものでもない。でもことさら卑屈になる必要もないよ。
好きで生きていたい。だったら、自分の人生から逃げ出す選択をしてはいけない。船は燃えていて、今にも沈みそうでも、そこから海に飛び込んではいけないんだと思うんだよ。
 
音楽が流れていた。
彼女のplya loudピアノの下で、ミニチュアダックスくんは安心しきった顔で寝ていた。
テナーサックスが「But not for me」を奏でていた。
だけど、それはみんなわたしのためのものではない。誰かのためのものなの。私のためには音楽は奏でられない。そう謳っていた。
 
音楽は体の細胞に染み込んで、血管にはアルコールの列車がものすごい速度で駆け巡っていた。
おれのオンボロの脳みそは興奮して、よだれを垂らしたパブロフの犬だ。
もうとまらない。とめられない。
 
でですね、でですね、そんでもっていいことを思いついたんですよね。
おいらのviolinとKさんのウクレレと、池ちゃんのvocalで加山雄三の「君といつまでも」をやったらどうかなあって。
その場で本人に早速交渉してOKもらったので、これでまたその演奏が生きる理由になったわけですよ。
そうやって毎日毎日なんとか生きる理由を探しとります。

#382 Talk about….2017/07/6 VOL.3.納涼会挨拶

 
本日はお忙しい中参集いただきありがとうございました。
 
(略)私事ではありますが、2017/4/23、うちのオヤジが86歳でなくなりました。
年齢から言うと申し分ないのかもしれませんが、未だ週3日は現役医師として働いておりましたし、亡くなる前の週も一人で四国お遍路に出かけてたぐらいですから、ちょっとびっくりでした。
「仕事はハードよ」と愚痴る自分に、「優雅にやれよ、伸介」(とか辛い時にも「命取られるわけじゃないんだから」とか言われたなあ・・)とことあるごとに言われましたが、まあそんな言葉を残して、ちょっと出かけてくるよみたいな感じで旅に出た感じです。
故人の遺志で、無宗教で、葬儀と埋葬は簡単な非常にシンプルで、自分たちと弟の一家のみでとりおこないました。
その際も、急なことにもかかわらず、スタッフの皆さんのご配慮とバイトの先生の手助けで、無事岡山に帰ってくることもできました。
またスタッフの皆さんからは過分な香典まで頂き深謝です。
この場で再び御礼申し上げます。
自分の母親は、此処を開業した18年前に膵臓がんでなくなり、外来の電話でオヤジの口から訃報を受けたのがつい昨日のことのようです。その時は開業したてで岡山に帰ることもできず、しばらくして「お別れの会」の時にやっと帰ることができました。
二人は無宗教で、自分たちだけの墓を生前に建てており、その墓の、おふくろの隣にオヤジの骨壷を収めてきました。
しかし、両方の親がこの世からいなくなるという喪失感は、なかなか心から今でも離れません。
それでも生きてゆかなければならないのですが、
こうやって生まれてきて、いろんなご縁があって、こうやってこの場所に立っているのも、なにか意味があることなんだろうなと、自分に言い聞かせながら、シコシコと生きていく所存です。
でも、人間の命が有限であるという実感は、最近で言えば、S産婦人科のS先生が51歳でなくなったときから、今も自分の中で連綿と続いており、有限ゆえの、なんていうんですかね、まあがんばらんといかんのよっていうことでしょうか。
自分の人生ももう56年で、現役としてこうやってたっていられるのも、たぶん長いようで短い時間なんだと思いますから。だから、自分としてはかなり飛ばしてる感じなんですよね。(焦燥感と充実感が半端なくあって、まるで二極性人格障害みたいな感じだなあと思ったりもしております。いつ壊れても不思議ない感じです。)
いささか固くなりましたけど、今日はこういうことを皆さんの前で喋っておきたかったので、久々にきちんと喋りました。
まあそんなこんなで、みなさんとこうやってこの場にいるのも一期一会ってこともあり、今年も半分終わったということで、大いに食べて飲んで、歓談いただければと思います。
 
(2017/07/01の病院の納涼会。62人集まってくれた。もつ鍋・博多屋本店。土曜の街は夜市で賑わっていた。モツ鍋から始まって、夜中になぜか自分はまたホルモン焼肉・吉で、マッコリを大量に飲んでいた。そんな夜の皮切りの挨拶。)

#381 Talk about…2017/07/05 VOL.2.夜更かしってやつ


midnight


夜更かしすることは今は殆ど無い。
唯一あるとすれば、患者さんの様態が悪いときとか、お酒を飲んで時間の感覚を失ったときだろう。
でも、遅くまで飲んだとしても、朝の白茶けた風景とか、ゴミ箱の上に君臨するカラスとかを見るまでに至ることはもうない。
まあ酒飲みの朝帰りには後ろめたさがつきものってことで、みんな多くを語りたがらない。
1年に1回位、夜中すぎの大街道で、でかいアーケードの柱に持たれて地べたに座り込んで、ヘラヘラすることがあるくらいだ。
もちろん誰も声をかけてもくれずに通り過ぎてくだけだ。
 
で、今は、夜遅くになると、コンセント抜かれたみたいに力が抜ける。
自分の場合たぶん22時とかそのあたりかな。かつて睡眠薬を飲んでた頃のことがまるで嘘みたいだ。(たぶんあの頃抱いてた焦燥感と、今抱いてる焦燥感の質が変わってきたのだと思う。今のはもうあとはないよの焦燥感なのか?)
それでも何かをしなければならない時があって、そんなときには「立ち向かって」いるそれなりにパワーが湧いてきて、そしていつの間にかハイになってくる。
 
そうやって先日もadlibをなんとか作り上げた。
 
でも夜の明かりの中で作られたものは、必ず、陽の光の下で何度も検証した方がいい。夜の暗闇は、意味のない自信を与えてくれることもあるが、それが、ちゃんとお天道様の下でも通用するかどうか、検証して何度も何度もブラッシュアップして、それでなんぼのものなのだと思う。
でも夜が与えてくれる開放感と万能感はやっぱり特別だなあ。抗いがたいマジックが夜の底にはある。
 
村上龍の小説に「限りなく透明に近いブルー」というのがあある。このタイトルは実は朝の空の色のことではない。そして、彼の考えていた原題は「クリトリスにバターを」だったとか。
でも、以下の引用をまたじっくり眺めて、自分は、見る人にもならないし、ガラスの破片にもならないだろうと思った。
空が明るくなる前の一瞬のあの色を写し込んだ魔法のガラス、それはやはり、夜の跳梁者の残していった刻印でしかないのだと思う。
それは朝になったら晒し者にされるかもしれないギリギリ手前の夜の魔法なんだ。
 
血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。
限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。
空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラスには何も映っていない。 (ブルーより)

 

なんか無意識下から龍さんが出てきたので、昔のblogの引用から(2009/5/7)
 
新装版『限りなく透明に近いブルー』が出たのを機会に、おそらく十数年ぶりにこの小説を読む。言わずと知れた村上龍のデビュー作兼芥川賞受賞作である。1978年のリリースということで、この年自分は高校3年生だった。冒頭でも述べたようにSF少年だった自分にはこの小説は縁がなかったし、田舎のノンポリ高校生だった自分には、なんせ内容にある、ドラッグ・米軍基地・乱交パーティ・日比谷野音・ロック(ドアーズ、ストーンズ、ジャニス、ジミヘンなど)・地下鉄とかの全てが、自分にはイメージできかねるものだったし。同級生の三村君が淡い水彩画で書かれたような表紙のハードカバー本を貸してくれ、まさにリリースされたその年に読んだのだけど、彼はどうしてあの本を僕に貸してくれたんだろうか。
 
そんなスタートからもう何十年も経過したが、村上龍氏は今では自分の世界になくてはならない人物になっている。今現在の龍氏はこの小説をどう評するんだろうか?そして、amazonに皆さんが少々批判的に書いているとおり、村上龍氏のビジネス雑誌連載をまとめたエッセイ『無趣味のすすめ』が9万部を突破したと朝日新聞の広告に載っている。コアな読者でもそう購入しないようなこの手の本を購入している層を是非見てみたいものだと思った。龍氏のエッセイは一見それっぽくって確信犯的だけど、次の瞬間にあれは全部ウソでしたといわれてもしょうがないようなものだと割り切ったほうがいい。
心に残る村上春樹氏との対談にこんな一節がある。戦場で前線に二人はいる。春樹氏が弾に撃たれるかなんかしてしまう。龍氏は1時間ぐらい看病したあとが「春樹さんおれ助け呼んでくるからそこで待っててよ」そういって後退したまま龍氏は帰ってこない。ああ俺はここで死んじゃうんだよなあ、まあいいか、龍だから、と、春樹氏はつぶやく。村上龍はそれでも許せるような人間である、と。これは実にいいエピソードである。このニュアンスが判るヒトには村上龍のエッセイはわかるような気がするのだが・・・。

 

#380 Talk about….2017/07/04 VOL.1.

http://i2.cdn.cnn.com/cnnnext/dam/assets/160712170804-baton-rouge-peaceful-protest-restricted-super-169.jpeg

 
今日から、とりとめもなく何かをしばらくのあいだ綴ってゆこうと思う。
そう思ったのは、国境を超えて活躍する「脇園彩」さんの記事を朝日新聞のGLOBEで読んだせいかもしれない。
 
彼女は、日本で育ち、東京芸大(2度めで補欠合格なんだそうな。それでも十分すごいけどね。)から、文科省の派遣制度でイタリアに渡り、いろいろあって、今ではイタリア・オペラ界の一線にいるという。
「イタリアでの生活は、何から何まで不便。電車が時間通りに来ることも少ないし。でも、だからこそ、イタリア人は発想の転換がとてもうまい。ものすごくポジティブに『今』を生きている」
 
朝から、できっこしない仕事の山の前に、次から次へとやってこられる外来患者さんと話をし、その中でできうる最良の判断をして処方をする。これは今の自分の境遇の話だ。イタリア・オペラ界の話ではなく。念のため。その時間軸の中で並行して、隣の透析室でまた別のことが起こっている。もうだめかもしれんと何度も思う。でもそこでフリーズしても誰にもメリットなどないし、神様が「いいよいいよ」なんて言ってくれることもない。そんなことはわかりきってる。だから、自分に言い聞かせてまた始める。それこそ瞬時の間に気分を切り替えてね。そんなことの繰り返しで磨り減ってゆく。磨り減ってくのは誰しも同じか。
自営業者の中には残念ながらかハッピーながら『残業』なんてコトバはない。だって、全部が自分の仕事なんだから、自分が線を引くまで止まることはない。それを残念と取るかハッピーと取るかは、自分次第ってことだ。
 
彼女のモットーも、瞬時に決断し、悔やまぬことだそうだ。
 
「いろんな人の汗、思い、人生の上に、わたしの歌がある。そうした責任を重荷にせず、翼にしたい」
 
それしかないのだと思う。
 
しかし瞬時に決断し、悔やまないことの前提には、経験と知識と頭脳がやはり必要なのだ。間違ってたら『くよくよ』が返ってくるだけだもんなあ。
だから自分のことは鋭い刃のように磨き続けなければならないし、いつも自分が一線にいられるための環境も作らなければならないのだと思う。
 
自分は、下手なりに、幾つもの楽器を弾いている。
アルトサックスに、ヴァイオリンに、ピアノに、ドラム。家で爪弾いてるギター。酔っ払ったら絵も描いてる。主には美女の似顔絵だ。まあ5分以内で出来上がるまさにインスタントhappinessそのものだと自画自賛している。いろんなことを器用にできますよね、と、よく言われる。それなりの料理も作る。自分でも忙しい人間だと思ってはいる。だけどその断面のすべてが自分なのだと思う。
 
だから、ちょっと悔やみすぎている自分に言いたいのかもしれないな。
 
どうせなんのかんの悔やんでも、今までだって、そして今だって瞬時に選んでるじゃないか?これが最上の選択じゃないかもしれない、だって?いいか、今までだってそうやって右か左か選んできて、それであとから落ち込んだ夜があったか?落ち込んだ夜でさえ、酒で最上の夜に変えたことだって何度もあったろ?だったら妙に悩むな。行けよ!Straight go ahead!
 
瞬時に選択して、後悔しない。
だがしかし、その選択のための努力は惜しむな。
 
まあ今日の結論めいたものが出たのかな。いえい。
 
 
 

#379 ファイト!

 

なにがどうというんじゃない。

右のものを左に動かしたいわけではない。
道路の真ん中に石を置きたいわけでもない。
じゃあなにをしたいんだ、なにをしたかったんだ、何度も繰り返された問いをまた愚かしくも繰り返してみる。
 
朝が来て、働いて、よれよれになって、
酒の海に溺れて、なんだか高揚した気分になる。
調子のいいことを言って、調子っぱずれの歌を歌う。
魂の居場所を教えてくれよ、魂の在り処を開けといてくれよ。
 
小さな声で、つぶやく、
誰にも聴こえないように、歌う。
ファイト、ファイト。
 
理解しあえたと一瞬でも思えたらそれでいいのか、
理解しようと、理解から程遠い人とずっと溝を埋めようと努力しつづけるのがいいのか、
どっちもどっちのような気もするし、
どちらにも意味はあるような気がするけど、おれの体は2つに引き裂かれたままで、宙ぶらりんでベロを出してる。
 
また素敵な人があっちの世界に旅立った。
残された人たちの世界しかこの世にはないのだと何度言い聞かせても、
やっぱり涙は止まらない。
窓の外から聞こえる雨は、誰かのシュプレヒコールだ。
 
小さな声で、自分に歌う。
このくだらないオレの人生も誰かに届いてるのか?
ファイト、ファイト。
 

#378 グダグダ考えても仕方ないのにグダグダ煮詰まる男が此処にもいたねえ。

 
自分なりにその場その場では頑張ってきたつもりだ。
でも、医者人生として、確固たる方針やらビジョンがあったのかというと全然そんなことはない。
 
大学に帰ってきたから、ヒトがしてないという理由で「神経因性膀胱」に取り組んだだけだし、
上司にうるさく言われたから、人一倍臨床論文の投稿をしただけだ。暗かったなあ、あの頃は。
でも、結局開業するにあたって、
それまでの泌尿器科人生で、色んな形で少しずつ携わってきた透析を、
泌尿器科の先生にではなく、松山赤十字の腎臓内科のオーソリティ・原田先生に教えてもらったから、
そして開業してからいろんな透析をされてる先生方が助けてくださったから、
今があるのだとも思う。
そう考えるとなんだか不思議なものだ。
 
自分も、大学での臨床生活の傍らに、いろんな基礎の教室を巡ったり、教授やら大学院出(当時はちゃんとした大学で研究教えてもらったヒトなんて同門にそうそういるわけでもなかった)の先生にあれこれ聞いて、それなりに研究をした。
研究もしんどかったが、まとめることはさらにしんどかった。
なんとしてでも英語で学位を取ろうと思っていたので、英文投稿したのだけど、やはりrejectされたり、実験を追加しろとか指示されたりもした。それを書けもしない英語で答えて、数回やり取りして、なんとか採用になった。
開業の準備をしながら、日赤で腎臓内科医として働きながら、そのやりとりやら英語の手直しは、夜の透析当番の合間に少しずつおこなった記憶がある。重たいMacノート、その時使うだけなのに毎日リュックに入れて担いで、自転車で通勤したよなあ。
開業してからようやく学位審査を受けて乙種博士号というものを頂いた。
大学院博士は甲種であり、そちらのほうが格上だということを後に知った。まあ、どうでもいいことだけどね。
 
こうやって書き出すと、それなりに頑張ったのかなあとも思うけど、それだけなのかなあとも思う。
自分の中ではなんだか過去になったようなだけの気もするし、血と肉になってるからいいのかなと言う気もする。
わかんない。
 
医学は日進月歩で進んでおり、開業医の自分は、マシンガンの前で日本刀を振り回してるという感じに思えるときもしばしばだ。
 
6月6日の講演は、岡山大学の准教授のセンセイによる、
スマートかつアカデミックで、その上にウイットに富んだものだった。
「難治性尿失禁に対するこれまでの取り組みと新たなる治療戦略」岡山大学 泌尿器科病態学 准教授 渡邉豊彦先生)
彼が泌尿器科として歩んできて、これからもアカデミア(大学のヒトという意味)の一員として歩む人生と、
自分の開業医人生を比較すること自体が意味のないことであるということは重々承知だ。
でもなんかうすら寒い風が吹いたんだよね。
 
音楽について考えてることと、昔学問について考えてたことがなんだか似ているような気が最近している。
音楽は、果てしない。
汲めども汲めども水は深淵から湧いてきて、その味はさらにまろやかである。だからもっとうまく底から掬えるように、理論を学び、それを手先で再現できるように練習する。
そうやって手術も学んだ。解剖を頭におき、メスを持ち、臓器の間を丁寧に剥離してゆく術も。
今、だから、果てしもない高みにある音楽はとてもつらいのに楽しい。
 
久々に、手術をした。
今の病院では手術は一人なので、ほぼしていない。
開業当初はシャントも作ったり補修もしていた。それなりの器用さを自負していた。でもいかんせん時間がない。
外来の時間までに終わらない手術はやはりされるべきではないのだと思う。
なのにまだメスを置けないでいるところが愚かしいところだ。
なわけで、パイプカットをしたのだった。
 
初稿を書いてからずいぶん時間がたったので、なにか核から離れていってる感じだけど、
自分たち開業医と、やっぱり第一線で臨床をバリバリやってたり研究をしたりしてる医者とは、別物だと思うんだよ。でもどっちも必要なんだろう。
一人の人間がすべてを背負い込む必要はない。だから医者でもわからないことはたくさんあるのはそれはもう事実として認めて、その上で自分のpositionでやるしかないんだと思う。
 
外科医(もとでしょうか^^;)としての自分、泌尿器科としての自分、透析医としての自分、開業医としての自分、経営者としての自分、やっぱり今日もうすら寒い風の中を、ああでもないこうでもないもういいかいや待てよとか進んでくしかないんだろうね。

 

#377 54歳からのピアノ その9 「新しい電子ピアノを買いますよ」


pianogirl

ピアノを始めるきっかけは書いたような気がする。
 
近隣の開業医のセンセイが51歳で急逝された。彼は音楽に造詣が深く、シャンソンとかのボーカリストもされていた。ほんとに急なことだった。葬儀の場で彼のliveのビデオが流れていた。かっこいい。でも彼はもうこの世に居ないのだという巨大な喪失感と虚無が押し寄せて、たまらなくなった。亡くなる2w前は一緒に飲んだのに。まあ俗に言う生き急いだ感のある人ではあったけど。人生の時間なんて誰にも規定なんて出来はしない。
 
自分もその前に、50歳に踏み込んでからもう一度音楽というものに向かい合いたいと思って、いろいろ手を出したところで、それさえもがアップアップだった。
ピアノも実はやりたいと思っていた。
でもこれ以上楽器数を増やすことは困難だったので、自分で定年と定めている65歳から始めようと言い聞かせていたのでした。
なのに、人生に残された時間は限りあるという現実を叩きつけられて、居てもたっても居られなくなったのだ。
 
うちに、ちょうど子供が小学校かその前からすると言うので購入したYAMAHAの電子ピアノ「クラビノーバ」があったのも後押しした一因ではある。
なわけで、例の島村楽器で、卒業したての可愛らしいあゆみ先生に教わることになった。
これが「54歳からのピアノ」というわけである。
 
それからもう数年たったのに、皆様にお聴かせできるかというとそんなことは全然ない。
悪戦苦闘の日々である。
でも、一時はもういいかと思ったのにやはり続いているのである。
 
岡山の実家にも実はグランドピアノがあった。
うちの死んだ親父は、チェロを弾いていた。その頃日本の円は力も持っておらず、日本も決して強い国ではなかったのだと思う。初任給をつぎ込んで(当時付き合っていたこれまた死んだおふくろの了承を得て)スズキのチェロを買ったらしい。たぶん彼にとって、音楽のある生活というのは、理想だったのだろう。なので、誰も弾けるヒトは居ないのに、グランドピアノを購入した。一時期は実家にトランペットもあったなあ。
親父の晩年は、月に一度、pianoを教えているような方にお金を払って自宅まで来ていただいて、グランドピアノの演奏で、ブラームスとかを弾いていたらしい。お世辞にもうまいとはいえなかった気がするが、今思うと、自分もバイオリン再開したわけだし、実家の「グランドピアノ」刷り込み効果もあってか、54歳でpiano始めたし、まあやはりおんなじような血が流れてるのかもしらん。
 
ではなぜ音楽を続けるのか?
 
それは嬉しいときに嬉しい音楽をちょっと座って奏でたり、悲しいときにはバーボンのグラスでも片手において、渋いブルースを弾いてみたりしたいからなのかなあと最近思った。
酔っ払って叫んだり、酔っ払ってついつい人恋しくなって、一人で商店街の柱に持たれて地べたに座って、目の前を過ぎてゆく若者たちを眺めてるときに思う、寂寥と孤独を伴った不思議な開放感と、それはある種似ているのかもしれないなあなどと・・。
 
でも、その流れてきた音が、自分の手によって奏でられた音が、自分をある程度納得させられないとね、いかんのですよね。そのための技術であり練習であり、その上での演奏なんだと思うんですよね。
脳内で鳴ってる音の5%くらいが自分の手で再現できたら、それで十分なんですよね!いやほんと。
 
そんなわけで、15年位たって、今回、あたらしいクラビノーバを購入することにしました。
 
CLP685という機種で、やっぱりYANAHAさんである。
グランドピアノのタッチを再現しているというのがどうも売り物らしい。
島村楽器の売り場で何回か弾かせてもらったのだ。
今の楽器は古いせいか、キーが反応してくれないことが多いのだ。すごく踏み込みが硬い感じ。まあそれと自分の下手さは関係などありはしないんだけどね。
新しい楽器はいい。気分まで浮き浮きさせてくれる。
自分で買うはじめてのピアノってことでもあるしね。
 
まあ、それがもうちょっと生きたいという理由になればそれもありかな。