だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#389 Talk about…2017/08/04 VOL.9. サム・シェパードが死んだ。

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やはり、自分もある程度歳を取ってくると、自分のかつてのheroだったりした人たちの訃報を聞く機会が増えるのは仕方がないことなのだとは思う。
それでもやはり淋しすぎるものだよ。
 
 
なんとALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていたのだそうだ。
 
かつてブルース・スプリングスティーンがそうであったように、
シェパードもアメリカそのもの(不屈であり父性としてカウボーイとしてのアメリカ)をしょっていた、いや背負わされてた気がする。
 
それは彼の本意とは無論違ったろう。
でもヒトはだれも自分が自分をそうであると見ているようには見てくれないし、それが世の中というものだ。
自分だってきっとそうだろうし、
でも他人の中にいる自分もやはり自分の一部なのだと気づいて、落胆する時もあれば鼓舞されるときもあるので、今からだってそうやって、いろんな自分の一部を肥大させながら生きてゆくしかないのだと思っている。
 
サムは自分では、actorとしてよりwriter(脚本家?)として生きてきたのだと語っている。
ライトスタッフ」、「パリス、テキサス」、「FOOL FOR LOVE」、
でも僕らが目にするのはやはりスクリーンの中のサム・シェパードであり、
その幾多の映画で、彼はやっぱり強くっても弱くってもアメリカそのものを生きている気がする。
小品だったが、「ボイジャー」という、ジュリー・デルピーを娘と知らずに愛してしまうあれも良かった。
彼の散文の傑作である「モーテルクロニクルズ」を、最近数ページ紐解いて挫折していたところで、訃報をたまたま知ったのだった。
ただしこの本ももうAmazonで調べると絶版になっているのだろう。18900円の値段がついていたのにびっくり。
自分は果たしてもう一回この散文を読み通せるのだろうかね?
そして、ジェシカ・ラングの名前も、サム・シェパードの死の知らせの傍らで、久々に聞いたけど、
彼女もデビューの「キングコング」とは違って、ほんとに意思がそのまま表情にでている女性のような気がして、好きだったなあ。
 
 (牧野植物園、高知、2017/7/9)
 

#388 ひとり『原田芳雄祭り』その9〜「悪夢探偵」(2007)

 
久々に原田芳雄さんに会った。
と言っても原田芳雄さんと面識があるわけでもない。
 
鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」の舞台挨拶をみるためだけに、
大学浪人している時、大阪まで行った(そんなことしてるから2浪したんかなあ)。
その時の原田さんは、本当にミリタリールックの髭ボーボーのあんちゃんだった。その感じでシャイに喋るわけですよ。
 
愛媛県のコミュニティセンターで原田さんと憂歌団のミニライブがあって出かけて行った。
その時原田さんのサインをもらった。
原田さんはレゲエのリズムで日本語訳したスタンドバイミーを歌われてて、それがすごく印象に残っている。あの「寝取られ宗介」の時と同じような歌い方だった。
 
原田芳雄さんは大腸がんで、73歳でこの世から消えた。
2011.7.19.
 
なのでもはや映画やCDという媒体を介してしかお会いすることはできないが、
そうやって、もうこの世には存在していない人にまた会いに行くという事が、仏事の意味なのだとしたら、仏事とかは意味があるのかもしれない。
 
いや何を俺は血迷っているんだ、
イマジン
想像した時に全てはホントになるとかつてジョンレノンは歌ったのではなかったのか
イマジン
想像するとき君はいつも隣にいるよ、って。
 
そんなわけで原田芳雄さんと会ったのは塚本監督の「悪夢探偵」(2007)の冒頭シーンだった。
 
原田さんの悪夢の中に降りて行った悪夢探偵松田龍平)は、原田さんをあちら世界においてきたまま出てくる。そして現実世界で、原田さんは息絶えるのだった。実はこの悪夢探偵は珍しく2作目まで作成されて、おりなかなか興味深い作品だった。
 
ちょい役でも原田芳雄はやっぱり原田芳雄だったのがなんだか嬉しかったんだ。
 
それにしても、塚本晋也もやべぇ監督の一人ではある。
 
ベタだけど、顔の中心が避けていったり、口が特殊メイクで陥没していったりする描写は、夢とは言え説得力ありありだ。
 
映像で見せるのは映画ならではで、好みにくい世界から自分を開放する一番いい方法は、自分ド命を立つことなんだ、なんでおれはこんな簡単なことに気づかなかったんだ、と叫ぶ安藤政信くんは痛々しくも、それが世界の真実だと気づいたいや知っていたおれは軽い嗚咽と嘔気の中で画面を観続けていたんだ。
 

#387 Talk about…2017/07/29 VOL.8. someday my prince will come.

 (牧野植物園、高知、2017/7/9)
 
いつか、いつか暇になったら、いつか時間ができたら、余裕ができたら。
曰く、「オーロラが見たい、マチュピチュ行きたい、リオのカーニバル観たい」
あれがしたい、じっくり取り組みたい。
「もっと絵に取り組みたい、楽器うまくなりたい」
でもそういうヒトに「いつか」の来る可能性は限りなくゼロに近い。
ゼロではないかもしれないけど、100から遠ければそれはゼロなのだと思う。
 
自分もしかりだ。
 
だけど、「やれない・できない」を他人のせいにするのはやめた。
少なくともやめんとイカンと思った。
それでも職業上、2泊以上のバカンスは取れないし、お盆も年末年始も仕事だ。
これを改善するためには、自分が一線を引くしかない。でもそれは今の時点では無理だし、out of rangeだ。
自分が自分で作ってきた「生活スタイル」のくせに、それにたいする愚痴は言うのだからしょうがねえ男だ。
キンタマのちいせえ男だ。
でもそれをヒトは贅沢というのだけど。
「わたしから見たら先生はやりたいことやってますよ」と言われたりもする。
だけどこれは比較じゃないからね。
 
まあ、上を見ても限りないし、下を見ても限りないし、いつだって隣の芝生は青いのだ。
だから、できる範囲で、帳尻を合わせようという努力は人一倍しているつもりだ。
無論それだって、半世紀生きてきて生活が安定してきたっていう経済的な背景が後押ししてくれてこその話ではあるんだけどね。
いつまでこのままいけるのか?
いつまでこの診療スタイルで世の中わたりあって行けるのか?
信じないかもしれないけどそういった恐怖感はいつも胸のうちにある。
この病院が廃れてしまって見向きもされないのではないかという危惧だってあるよ。
 
実は奇妙な夢を見た。
 
タクシーに乗っている。
運転手さんはこちらのことを熟知しているようである。連れてってくれる場所も知ってるみたいだ。
何故かクルマをなくした自分はそこに帰るしかない。
前部シートから喋りかけてくれるのだけど、肝心なところがノイズで聞こえない。その前後の文脈から適当に相槌を打っていると、どんどんわからなくなってゆく。でもなんか自分の身内のこともよくご存知のようなので、会話は途切れることなく続いてゆく。
もしかしておれの聴力が落ちてるってことなんかいな、と、不安ももたげてくる。
あっちにいってそこじゃない、そっちにいってもそこじゃないと、ついたところは、なんか風光明媚な山の酒蔵で、遠くの山は雪化粧で、そちらにワイナリーもあるという。
いや、おれの行きたかったのは確か自宅のはずなんだけどなあ、というと、あんたのお父さんもそんなことゆうてたなあと、古い土蔵のような倉庫から出てきた人懐っこいおばちゃんが言う。
まあとりあえず、風呂にでも入りんさいや。その間にうどんは打っとくからねえ、だって。
 
あの世も近いかもしらん。

 

#386 Talk about…2017/06/28 VOL.7. playing violin,playing sax.

2017/06/28は、ウクレレデュオ「オルオル」さんをバックにviolinを弾かせてもらいました。
曲は「バードランドの子守唄」、なんか、2回もやらせてもらえました。
自分だけではなかなか独り立ちできず、violinの先生に3rd positionの指使いを教えてもらったり、自分で作ったアドリブを今回はきっちり譜面にして、それを練習してのぞみました。
ホントは心の赴くがままに、音を紡ぎ出せればいいんでしょうけど、現時点ではその方法論は時期尚早と判断したわけです。
毎月、新しい曲を自分で決めて、それをどういう風に弾くか考えて、アレンジして、それで必死こいて練習してplayするんですけど、そうやって人前でできるのも、一緒に演奏してくださるスーパーミュージシャンの皆さんがいるおかげなんですよね。感謝です。
 
以下、独白です。
 
そうだよね。
JAZZは自由だよね。
例えばBeatlesのコピーをするのもすごいことだけど、下手くそでも自分のjazzをplayできたらいい。
でもおれのサキソフォンから出る音のなんとしょぼいことか。
一瞬だけでも楽譜から自由になってダンスが踊れたらいいのにね。
でもそのためにはやっぱり無茶苦茶な演奏ではだめなんだと思うんだよ。
だから、練習したり理論を学んだりするんだけど、自分の中から出てくるのは、やっぱり自分に縫い付けられた音だな、残念ながら、まだまだ。
 
まだまだまだまだ。
 
人生は一回こっきりだからね、そして始めるのに遅すぎることなんてきっとないのだと思う。
多分この文章は自分に必死で言い聞かせる目的で書かれてるんだろうね。
何回も書くけど、自分は、50を過ぎてから再び、やっとの思いで、「音楽」に邂逅できた気がするんだ。
自然にしてたら全てはこの指の隙間からこぼれ落ちていってしまうんだよ。
ぼやぼやしてたらいつの間にか棺桶の中で寝てたっと事にもなりかねない。
だから、せこいとかいわれても、意識的に「音」に向かい合う方法論しか持ち合わせてないんだ。
そして、今度こそは、長く付き合っていこうと思うんだよ。
 
竹原ピストルさんが、旅しながら全国の色んな場所で歌い続ける姿はあまりにもかっこよすぎたから、
玉置浩二さんのギターと声はあまりにもsexyだったから、
Kaori嬢のウクレレの弦を弾く指から溢れ出すなんていうのかなpassionのようなもの、
そんなこんなが、おれに力をくれもし、容赦なく打ちのめしてゆく。
戦争の足音がする国で、ピストルの代わりに、自分はやっぱり楽器を携えて、踊っていたいよ。
 
【追記】
まあ、それから進歩があるのかと言われると疑問ですけどね。
実は台に立てかけてたサックスが何故か自重でゴトンと落ちて、そんなに大した振動でもないはずなんですけど、吹いてみたら、なんか出るはずの音が出にくかったり、1オクターブ裏返ったりする。見た目に凹んでるとかはないんですけどね。
それで、現在マイ・サックスはドナドナで修理中で、バランス調整とか内部の油の補充とかそんな最中だそうです。なのでなんだか気が抜けた状態であるわけなんですけどね。

#385 Talk about…2017/07/21 VOL.6. DEATH&LIVE

 (牧野植物園、高知、2017/7/9)
 
死について考えようと思った。
 
やはりそこから抜け出せないのは、「死」についての納得がまだないということなんだろう。
納得なんかしなくっても全然心配ないよ、おれは笑ってそいつと付き合ってけるよ、という心情であると思っていた。
いや今でも70%くらいはそんなふうに思っている。
そして、生命の糸がプツンと切れて物質に戻ったら、その後は何もないのだという考えにも変わりはない。
だから墓もいらないし、戒名なんて必要ないって話も。
 
不死を望んでいるヒトはきっと人一倍死を考えているんだろうな。
不死をテーマにした文学もたくさんある。ヴァンパイヤだって狼男だって、それな不死への願望を持つ人間の嫉妬が生み出したものかもしれないではないか。
本屋に、萩尾望都先生の何十年ぶりかの「ポーの一族」が平積みされてた。
あれって、不死の話じゃなかったっけ?なんて思ったのだ。
平井和正の「ウルフガイ」こと犬神明さんは、作者亡き後、今頃どこで何をしてるんだろうね、とか、
そういえば自分の好きな「妖怪人間ベム」も人間界の裏側で今も人間たちの荒廃した精神の井戸を掘り続けてくれてるのかなあ、とか、
梶尾真治先生の「エマノン」はいまもくわえタバコで旅してるんだろうな、とか、
そんなことどももおれを形作ってくれたんだとしたら、やっぱりまことにかたじけないであります。
 
そして「死」は突然訪れるものではなく、身体機能やら、認知機能の衰えとともにじわじわ真綿で首を絞めるように訪れるから、それが一番怖いのかもしれない。
自分が自分でなくなってしまったさらに延長線上に「死」が「でええん」と待ち構えているというイメージは確かにちょっとやりきれない。
 
日野原先生は死ぬ直前まで「清明」で人一倍話されたという話を聞いて安心した。彼はきっと自分の死のイメージの中で絶命したのだと勝手に思う。
急に苦しみあっけなく死んだオヤジは死の前の週も普通にお遍路参りをしていたし、膵臓がんが発見されて自分の死を覚悟して3Mの闘病の上死んだおふくろは麻薬で意識が朦朧とするまではまさに闘い続けていただろうし、その2つの身近な死のどちらがどうだなんて論評することなんて出来はしない。
そしておれの延長線上にも確実におれの死はある。
 
それがどう転んだのか、
 
ずいぶん以前にリアル書籍の方で手に入れていた細野晴臣さんの「とまっていた時計がまたうごきはじめた」という対談形式の本を毎日1章ずつ読み進めることにしたのでした。
 
対話1
「この世で起きていることのすべてが想定外。想定外がないとなにも生まれてこない」
 
細野さんも65歳になって年金をもらう歳になった。時間の経過について問われて言う。
「うん、あっという間だった。早いよね。
でも、いまは誰にとっても時の経つのが早く感じる時代なんだろうね」
 
きっと日本の音楽の黎明期からフロントラインで生きて、いまも音楽に携わってるそんなヒトの、口から出るリアル・ワードが聞きたいんだろうね。
 
昨日も、昼間ラーメン喰って、カホンのパターン教わって、facebookの知り合いの彼女と島村楽器で出会って(彼女はギターを習われてますよ。)軽口叩いてる時に、突発的に思ったんだ。
やっぱりヒトしかないのじゃないのかな。
その人間を示すのは、こんなblogでもなく、そのヒトの地位でもなく、そのヒトを取り囲んでる人間ってやつが(仕事もプライベートも含めて)その人を表すんじゃないんだろうか。
・・ってね。
 
まあ相変わらず脈絡ない話ってことで。
 

#384 Talk about….2017/5/01 VOL.5. KOTOBA

 (牧野植物園、高知、2017/7/9)
「読む」と「書く」は、本当の意味で何かを認識しようとするひとつの試みの、二つの側面にほかならない。
真に認識することをここでは「分かる」と表現する。
人生の意味を「分かろう」とするとき、「読む」と「書く」は、呼吸のように分かちがたく結びつく。
現代の心は、幼いころから「読む」ことによってため込んだ情報でいっぱいになっている。
私たちはそれを、ひとたび「書く」という営みを通じて世に放つ必要がある。
人は思っていることを「書く」のではない。それはメモにすぎない。
むしろ「書く」ことによって、自分が何を考えているのかを知るのである。
愛媛新聞 2017/05/01) 「思索の営み」・若松英輔

 

これは「思索」に関する随想である。
 
なかなか深い洞察だなあと思ったので引用して抜き書きしてみた。
 
例えば、ものごとにはinがあればoutがあり、日本語には表裏一体などという便利な言葉もあり、
自分でいえば、ONで仕事をしてOFFで酔っ払ってはしゃぎすぎていたりする。
やがてアレもこれもが混沌の中に飲み込まれ、どっちがどっちだったのか既にわからなくなる。
そんでねえ、そんでねえ、
実は一方通行などはないのだということをくれぐれも忘れぬようにね、という、まるで人生みたいな考察だったりする。
 
でもね、相互補完できとらんことが多すぎるんよね。
 
実は一方通行でのどん詰まりにいてdead endになってることもたくさんあるのに、気づけないでいる。
あるいは気づいてもどうしようもなくって、対岸の火事を眺めながらこっちに飛び火しないように祈るくらいだよなあ、とか言ってるのが我々のような気もするのだった。
そして対岸の火事だと思ったことは、おれのケツに差し込まれた爆竹だったりするのだ。
火をつければ待ったなどはない瞬殺だよ。
 
ダース・ベイダー卿がなぜダークサイドに落ちたのかに関して、昔考えたことがあるけど、もうそんな時点ではないのかもしれないよね。
もしかしたら。
そしてわれわれの紡ぐ人生のサーガはあっけなさすぎるから。
それでもやりかえやら差し替えのできないかけがえのないサーガだけどね。
 
そんなしょうもない人生だとわかっていても、
やっぱり地道に足元を照らしながら一歩ずつ、我々は救いを求めて愚直に生きていくのか?
そうせねばならんのか?
 
問うても答えはない。
無明の闇を、じっと見つめて見つめて見つめ倒して、浮かび上がってくるvisionを待つしかないのか。
 
見えたかと思えたものが、
またひっくり返って、闇の彼方に消えてしまった、
正直今はそんな気分だ。
 
自分を形作っているものの正体は、
自分が酔っ払って声高に叫ぶものではなくって、
日常の自分の「行為」とか「営為」とか「仕事」とか、そういった枠組みでしか表出できないのかもしれない、
そう信じているから、
日々の営みを、今日も、今宵も、粛々と続ける。
ちくしょお、ちくしょお、
なんに対して憤っている、なんに対して泣いている。
 

 

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

 

 

#383 Talk about….2017/07/07 VOL.4.今宵のreason to live.

 

随分酔っ払ったな。
いろんなことをくっちゃべったな。いろんな耳にしたくないこともたくさん聞いたな。
それが人生だなんて一括りにはできないけど、その人の人生は結局その人が長い時間かけて作り上げてきたものなんだな。
だから簡単には方向修正できないのかもしれないけど、舵を操れるのは、どっかから現れた天使でもなんでもなくって、その人でしかないんだよ。
だから、きみの耳に入れたくないコトバをおれは喋るかもしれないけど、でもきっとそのコトバはもうきみの耳に届くことはないんだろうな。
悲しい話なのかな。これって。しょぼい話なのかな。これって。
 
仕事っていうやつが占める割合はかなりでかい。仕事がある種人生と言っても過言ではない。仕事のため、仕事のため。では長い月日をかけて、作り上げてきた仕事って、そんなに些細な事で放棄していいのかな。いつまでも現役でいられるわけはない。いつまでも人の役に立てるなんておこがましすぎる。自分がこの世に生まれてきたことに意味はあるのか。なんのために生きて、なんのために死んでゆく。唯生きて、笑って泣いて、糞ひって、死んでくだけの人生という話もある。それも上等だ。ことさらえらそうにするものでもない。でもことさら卑屈になる必要もないよ。
好きで生きていたい。だったら、自分の人生から逃げ出す選択をしてはいけない。船は燃えていて、今にも沈みそうでも、そこから海に飛び込んではいけないんだと思うんだよ。
 
音楽が流れていた。
彼女のplya loudピアノの下で、ミニチュアダックスくんは安心しきった顔で寝ていた。
テナーサックスが「But not for me」を奏でていた。
だけど、それはみんなわたしのためのものではない。誰かのためのものなの。私のためには音楽は奏でられない。そう謳っていた。
 
音楽は体の細胞に染み込んで、血管にはアルコールの列車がものすごい速度で駆け巡っていた。
おれのオンボロの脳みそは興奮して、よだれを垂らしたパブロフの犬だ。
もうとまらない。とめられない。
 
でですね、でですね、そんでもっていいことを思いついたんですよね。
おいらのviolinとKさんのウクレレと、池ちゃんのvocalで加山雄三の「君といつまでも」をやったらどうかなあって。
その場で本人に早速交渉してOKもらったので、これでまたその演奏が生きる理由になったわけですよ。
そうやって毎日毎日なんとか生きる理由を探しとります。