だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#395 そしてよりよく生きることと長く生きることの違いについてよく考える。

 

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朝日新聞9/30「医学部受験生への伝言」というものを読む。
 
秋を迎えて、大学受験シーズンが本格化します。相変わらず理系で人気の高いのが医学部。
来年入学する若者が医学部を卒業する2024年は、団塊世代がみな75歳以上の後期高齢者に突入する時期とほぼ重なります。
政府は超高齢化に対応した医療の体制づくりを進めていますが、はっきりしているのが将来の医療需要の変化。これまで医療の柱だった高度急性期や急性期の需要が減り、回復期の病院の必要性が増します。
回復期の病院では、高齢者の肺炎などの急性期対応はするものの、高度な手術はせず、在宅復帰に向けた入院医療を提供するのが仕事です。専門性が求められる脳疾患でのリハビリ病院とも別のものです。
一方、医師のキャリアの王道は、高度急性期や急性期の病院で働くことです。国家試験に合格後の医師教育も、急性期の医療現場で行われます。しかし、回復期の需要が増えれば、高度な医療技術を身につけたい多くの若手医師にとって「狭き門」となります。
ある現役医師は、急性期と回復期の医療需給のギャップについて、こう例えます。
「高級店のすし職人として育成された人が毎日、大衆食堂で肉じゃがを作る仕事をやりたがるだろうか」

 

「高級店の寿司職人の教育を受けたものが、毎日大衆食堂で肉じゃがを作る仕事を好むだろうか?」
 
今後の在宅医療とかへのシフトがますます予想される医学界について、
ある現役医師が言ったとか。
 
彼の発言はちょっとおごってるし、誤解を招きやすいかもしれないけど、彼の気持ちはわからんでもない。
 
再生医療とか、iPSで心筋が再生できるとか、それは夢の分野かもしれないけど、
鉄腕アトムが白黒のブラウン管にいた時代よりは遥かにリアルに近づいてきた。
 
ロボット手術とか、分子標的薬とか、IMRTとか、介護ロボットとか、64列のCTとか、
あたりを見渡すだけで実現された魔法のような医療はたくさんある。
HCVだって撲滅を視野に入れられるようになってきたじゃないか?
そのうち、医者の隣に幾百万ものデータを持ったペッパーくんが座っててくれて、鑑別診断を教えてくれる日だって来るだろう。
 
素晴らしきこの世界!
 
でもね、医学理念と医学の最前線を学んだ上でしか、一般医療とか回復期の医療は存在しないのだと思うよ。
 
はじめから在宅医療についての実務を学んでも意味などない。
家族への根回しとか聞き取りとか信頼関係の構築とかか、介護関係者とのやり取りとか、訪問介護との連携とか、
(本人との信頼関係が一番なのは当然として)
そんなものに関しての知識は、その患者さんの人生の終焉とか疾病の経過に関してのビジョンを持ちうる人にしかできないことなんだ、と、
 
こういうこと書くと、妙に誹謗中傷とか、
だから医者はいつも上から目線でしか見れんのよねとか、
そんなこと言う輩が必ず出てくるんだけど、
 
そして確かにこれも少しおごった言い方かもしれないが、
ほんとそう思う。
 
そしてよりよく生きることと長く生きることの違いについてよく考える。
 
*写真はダ・ヴィンチに引っ掛けてみました^^;

#394  雨と風の夜と、親父の声。

昨日は疲れたせいが早く床についた。
しかしそう簡単に眠れるものでもない。
 
それでかどうか夢を見た。
 
病院に電話があった。受話器を取るとおやじの声だった。
「わしゃお前の電話番号忘れてのぉ。この携帯に電話してくれんかな」
いつもの様に自分の用件だけを言って切った。
あーそうか、じゃあ親父の携帯に電話せなあかんのやな。そう思って忙しいままに時を過ごした。
診療が一段落して、あー電話せにゃいけんなぁと思って、ふと思い出してみると、もう親父はこの世にいないことに気づいた。
こんな感じで始まるなんちゃら詐欺もあるんだと思うけど、あれって一体全体何だったのかな?
みんな、きっと死んだ人を抱えてる人は同じことを思うんだろうけど、いまだに彼が此処には、この世にはいないのだということが実感できずにいるんだろう。そんな自分はダメダメちゃんなのか、それともそれはある種当たり前の事なのか、そして生きることと死んでいることの境界線とは何なのか、じゃあおれは生きてるって胸を張って言えるのか、とか、そんなことを思いながらもすぐに忘れて、今日の生きる理由を探す間もなく1日を終えている。
 
夜半になって雨足はひどくなり、風の音もガタガタと駄々をこねる男の子みたいにうるさかった。
一方でそれを感じながらも、やはり浅い眠りの中にいて動くことはなかった。
家人が起きだして窓を閉めている気配を感じ取ったけど、体はやはり動かなかった。
そんなこんなで枕元の iphone 見るともう5時だった。
 
そんな風に一日は始まるんだ。
 

 

Twitter

 
 
 
【蛇足】こないだ見た朝井リョウ原作の「何者」という映画のなかで、主人公の若者は、ことあるごとに twitter をしていた。
人と会いながらも、机の下で iphone を片手で打ってた。さりげなくね。そしてハンドルネームを2つ使い分けて、表の自分と、裏の暗黒面の自分とをうまく表出していた。その2つをうまく表出して自分の中の均衡を保とうとしているのだと思うのだけど、果たしてそれが彼にとってプラスだったのかは分からない。映画の最終では裏のtweetを否定する方向にstoryは流れてゆき、主人公はいたたまれなくなって好きな女の子のバイトしてる店まで全力疾走したりするんだけど、その行為だって本当はどうなのか誰にもわからない。
なぜそんなことを書いているかと言うと、140字で自分を表すと言うのは確かに国語的能力ではあるんだろうけど、それで終わらないものの方が世の中にはきっと多いだろうし、140字にして解き放ってしまったものはもしかしたら垂れ流しなのかもしれない。
そんな風に思うのは、自分が twitter 世代ではないからなんだろうけど、ね。
なかなかか 自らはtweetらしいtweetはできないでいるけど、いろんな情報を探すのにネットより twitter の方が便利なことも実感してるよ。
まったくとんでもない世の中なのに、ある意味ではいい世の中だな。誰かさんの心の中の声をたまに聞けた気になることだってあるしね。
 

何者

#393-2 ポタリングから帰っての昼ごはん。

 

細うどんを茹でて冷水で締めて、それとピーマンとしめじとなすとベーコンを炒めたものをあえます。亜麻仁油でコーティングしたレタスとまたあえましたよ。トッピングとして、トマトとチーズをのせていただきます。
これやりたかったんですけど、最期にいちじくをのっけますよ。
このとりあわせがなんかいいでしょ!
今日の昼ご飯でした。

#393 映画「何者」(2016)と、久々のポタリング

 
朝井リョウ原作の「何者」(2016)という映画を観た。
現代の就職活動の中での人間関係と彼らの変容を描いた小品だ。
なかなか興味深く見た。
自分は医者だし、昔の人間なので、ほぼ就職活動というものには縁がなく生きてきた。
大学を卒業して医師免許をとったら、その先は自分の大学の医局に入局してしまえば、あとは上の言われるがままにして、東へ西へ、北へ南へ、という感じで、研修だってそんなにきっちりした体系でもなかった(すみません。だから赴任先によって症例数とか違って不公平だよなあとか漠然と思うだけで、表立って口にするものでもなかったんだけど)。
その人事にもあまり疑いを抱いていなかったし、それは自分だけではなく、みんながそうだった。
その頃は医局を辞める人もそんなにはいなかったしね(それでも数人の先生がいろんなトラブルとかそんなことで去っていった。そして当然のごとく彼らの消息はほぼ知る由もない。)
今は結構自分の好きなようにみんなやってるような気がするけど、フリーターのお医者さんもいたりして、それはそれで大変なのかもしれない。自分は開業してしまったので、医局の人事のレールから外れたのだけど、大学の意向に沿っていろいろやっている人は大変だとも思う。
また話題がそれましたけど、これは一般企業に就職するために就活をしている若者たちの群像劇だ・・って言ってもたったの5人だけなんだけどね。
結局は人間らしく生きてるやつがいいよなーっていうとこで終わってしまって、なんだか当たり前の結論なんだけど、社会に属さない「何者」以下と自分のことを思ってる学生が、「何者」かになれるのか、まあ平たく言うとそういうことなのかもしれないですね。
でも自分が「何者」かなんて、本当は死ぬまでわからないし、自分の評価なんて他人がつけるだけの様な気もするし、もし今の自分が100%自分に満足できたら、もうそれはモチベーションが無くなって終わってる様な気もするし、相変わらずグダグダやってるうちが花なのかなとも思う。
今日、1年数ヶ月ぶりに自転車に乗ってポタリングをしたわけだけど、散歩したりポタリングをしたりしていると、自分がこうやって空気の中に包み込まれて自分の足で踏み出すぐらいしか人生の実感なんてないんじゃないかとも思えてくる。
人生の本番がいつなのか、いや今この「現在」が本番なんだけど、実は自分はずっと人生のリハビリをしてるんじゃないかなって、なんかそんなふうに考えたのでしたよ。
 
【蛇足】映画の面接シーンで、1分で自分のことを語ってくださいというようなのがあって、主人公は、tweetの140字みたいにまとめんと語れんよ、みたいなことを言ってたと思うけど、まあそういうふうにまとめる・まとめようって思うのが若いってことで、(自分も受験生のころは現代文の要約とか得意だったよなあ)、今の自分たちは、金魚の糞みたいにダラダラいろんなものを垂れ流しながら、いつ尽きることのない患者さんの話を聞いて、今度は自分の話も時には聞いてもらったりしながら、生きとりまっせ。わはは。

 

何者

何者

 

 

#392 「戦場のメリークリスマス」(1983)

戦場のメリークリスマス Blu-ray

 
やっぱり戦争の映画を見てしまいますね。
 
大島渚さんの1983年の作品「戦場のメリークリスマス」を、
デビット・ボウイ逝去記念にNHK-BSでやってたのを録画してあって、やっと観ることがかないました。
公開当時に観たはずなんですけど、全く失念しておりました。
 
たけしが例の笑顔で「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」って言うとこと、
坂本龍一演じるヨノイ大尉が david bowie演じるセリアズ少佐と抱き合う(ボウイの方から寄っていったのがホントですけど)ところしか覚えてないというお粗末さでした。
 
戦争は本当に狂気です。
狂気の中の狂気であるために、狂気がまともに見えてしまう。だからみんな判断基準が狂ってしまう。その狂気を箱の様な収容所の中だけで描き切った大島渚はやっぱり天才なんです。この映画、それに男しか出てこんもんな。すごすぎる、すごすぎる。そしてほんとに怖すぎる、すべての歪んだ風景がなぜか当たり前に見えてきて、いつか自分も銃剣持って英国人捕虜を監視してる一兵卒のような気分になってくる。1942年のジャワ島でね。
 
戦争が終わり、ハラ軍曹が処刑される前夜、ローレンスが収監所を訪ねて二人は昔話をする。
 
ハラは「死ぬ覚悟はできております」(I’m ready to die)っていう。
 
でもその言葉は、たぶん英国人であるローレンスの中に響いているものと、軍人であるハラの心の中のニュアンスとのの間に、戦争が終わったとはいえ、幾万光年の隔たりが永遠にあるんだろうと思う。
 
そう、端的にいうと、ヒトとヒトとは決して分かり合えないのかもしれない。
だからこれもいつも言うことだけど、分かり合えない前提で接していかんとだめなんだろうなあ、そうしていくしかないんだなあという諦念はいつも自分の中にある。
 
だけど、捕虜と帝国軍人と、ハラ軍曹(たけし)とローレンスと、ヨノイ(坂本龍一)とセリアズ(ボウイ)と、一瞬だけど心が通じ合うのは、やはりhuman beingとしての共通認識があるからなのかもしれないな。
 
だったら、捨てたもんでもないんじゃないの?
 
・・で現実世界を振り返るに、アメリカと北朝鮮、ドイツ、韓国、中国、フランス、インド・・わかりあえるなんてやっぱり幻想にすぎないんだと思う。
それでも追い求めるんだけどね。
 

帰ってきたヒトラー(字幕版)

 
同時期に観た「帰ってきたヒトラー」(2015・独)も、笑わせながら怖い映画だった。
ヒトラーが自決前の地下壕から現代のドイツにタイムスリップするんだけど、この世界では、彼はコメディアンとしてしか認知されず、しかしそのトークと風貌でどんどん人気ものになってゆく、そして・・という映画。
時代ややり方が変わっても、結局人間なんてそうそう進歩なんてできない。今でもどこかにヒトラーはいて、チョビ髭の手入れをしてるのかもしれないな。
 
ヒトラーは映画の中でもことあるごとにこういうんだ、「我が国民のために」って。
 
この国のAくんだって、病気から不死鳥のように蘇って、二回目の首相してるのは「我が国民のためだ」っていうんだろうしねえ。
 
だからおれはやっぱり、大義の中に生きていたくはないんだ。
そう思う点で、ただの小物なんだといつも気付かされて落ち込むんだけどね。
大義の匂いがするものなんていくらでもある。
宗教とか学校とか、組織とか、あげればキリはない。
自分だってその中にいるくせに、背中を向けたくなるんだよね。その時点で小物だってことか。そのくせいつも何かを欲しがっている。
 

 

 

#391 Talk about... VOL.11. From the graveyard,2017/08/13【蛇足】

こうやって、自分の父親が死んでから、ああでもないこうでもないことを、思いつくままに綴ってきて、もちろん何か結論が出るものではないけれど、それに付き合ってくれたであろう数少ない人たちには感謝しとりますよ。
 
人は一人で生きてるような顔してても、やっぱり他人の視線とか評価の中でしか生きられない動物なんで、そんでこんなminorな文章を書かんと生きてけんわけであります。
 
今日ゆえあって、墓地というところに行ってきました。
 
(念の為にゆっときますけど、うちの両親の墓じゃないですよ。自分がこれから先、親の墓の前に立つ日が再び来るのかどうかはわかりません。無宗教の墓には儀式はありませんからね。ただそこに骨壷が2つ鎮座しているだけのことです。彼らが何十年か生きたことの帰結としてね。おやじとおふくろ。でも彼らのDNAは自分の中にある。それが答えなんだと思います。だからおれが胸に手を当てた時に、そこにすでに答えはあるのだと思います。だから墓はやっぱり形でしかなく、儀式たちはおれの前を素通りしていくんです。そう、風が吹いてくみたいにね。)
 
で、お盆ということもあってか朝からなかなかのヒト・ヒトでした。
 
ほんとに此処にご先祖様はこんなところに帰ってくるんかいな?戒名があれば死んでから浮かばれるんかいな?墓はなんのためなんかな?宗教はなんのためにあるんかな?おれの行く場所はとにかく此処ではなさそうだな?そんな幾多のクエスチョンマークも、蝉の声とうだるような暑さと太陽が消し去ってくれました。
 
それで、この「talk about..」最後の最後に、「ああ、これもみんな愛なんだなあ、それでいいんだよなあ」という天啓が降ってきたのにはホッとしました。
 
また、そうじゃないとか言い出す日も来るかもしれないけど、大きな目でみたら、その(例えば愛する)ヒトと24時間一緒にいて価値観までも共有するんじゃなくってもいいんですよね、今はね。その考えは少しだけ淋しいことなのかもしれませんけど、「陽子(40代でなくなったアラーキーの奥さん)亡き後、すべての女性が恋人になった」ってことは「すべてがLOVE」ってことでいいんじゃないかって思います。絵を描くことも、酒を呑むことも、楽器を弾くことも、診察することも、そして生きてくこともね。
 
これで、一応、「Talk about..」シリーズ終了です。
中身は全部一緒の気もしないでもないですけどね。
多少なりとも付き合ってくださった皆さんに感謝しつつ。
 

 

#390 Talk about…2017/08/06 VOL.10. 「愛」ってたしかに因果応報なのかもしらんけど、

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因果応報なんて言葉があります。
 
親の因果が子に報いぃベベベン♪なんてていう風に、あんまり良い表現の方向では使われない感じがします。
そういえば2017/08/05(松前)の花火大会でもお化け屋敷もやってたけど、それこそ先祖の祟りで蛇女になったりした奴がいたりして、因果応報なんて煽り文句でアナウンスされたりするわけです(いまどきそんなレトロなんはないかも^^;)。
悪いことしてたら、来世で罰が当たるよとか、お天道様はちゃんとみてるよ、とか。まあ今ではそんな儒教的説教も通じんけどなあ(汗)
 
一方では「愛」とかいうのは崇高な言葉として使われがちだけど(それも今はちょっと地に落ちてるかんじがするのは、愛とセックスとが混同されてるせいなんだとは思うんだけど、愛のないセックスは確かにあるもんなあ、なんぼでも。でも愛とセックスはもう別で考えてもいいんじゃないかって、性病の患者さん診てたら、彼らをかばうんじゃないけど思ったりもするのだけど、これって職業病なんかなあ?)、愛が終わってしまって、例えば憎しみだとか不倫だとか離婚だとか死別だとか、なんかそういう形に終わってしまったら、はじまったときの「愛」はなくなってしまうんだろうか?
ネガティブな形に終結してしまった愛はそれこそ因果応報なんだろうか?
それらを始めっから存在しなかったことにできちゃうのかな?
 
なんてことも思ったりするわけです。
 
もう何年も前から断捨離をゆっくり進めているけど、捨てられないものはいくらでもある。
棚の中から古いビデオテープを引っ張り出してきて、故・サムシェパード氏の「ボイジャー」(1991)という映画を見た。
この映画も日本では dvd が発売されてないぐらいなので、きっと埋もれていくようなものなのだろう。
 
だから、筋書きみたいなことを言ってごめんなさいだけど、これは1957年とかそのあたりの時代のドラマだ。
サムシェパード演じる世界を股にかけるフェイバーという技師と、好奇心旺盛で知的でキュートな女子大生のジュリー・デルピーが、パリへの航海の客船上で知り合い、お互いに惹かれてゆく。
二人の愛は素晴らしい。そしてその愛にはやっぱり嘘偽りはない。
・・でも愛の帰結が、結局禁断のものであり、そうなってしまうと、愛していても二人はもう肉体として繋がることができない。
愛しているがゆえにというジレンマから、ふたりは繋がっているのに離れていく。
そして、そういったドラマにはやはり最後で悲劇が訪れる。
愛した女の子が、自分を捨てた(実は自分のほうが精神的に彼女を捨てたんだという残酷な事実も彼女から突きつけられる)女の娘だったという事実。
その事実と、女の子は死んで失われてもうこの腕には抱けないのだ、という事実。
それを引きずりながら生きていかなければならないのは、やはり因果応報といっていいのだろうか?
 
生きてゆくことはいつだってたしかに哀しすぎる。
 
で、自分のこと。
これから先、この自分にだってまたふたたび誰かを狂おしく愛する日が来るのかもしれない。
いやホント可能性はゼロとはいえんからねえ。
そう感じた時、もしその思いに蓋をしなければならないのだとしたら、それが正しいのか間違いかなんて、
そんな今更なことを書く気は毛頭ない。
 
だけど、だけど。
 
社会性という枠の中で、なんか芸能人は協奏曲のように不倫だの離婚だのという、生々しいドラマを演じている。
まあマスコミに踊らされて、自分たちも踊って、それでみんな納得してるだけのことなんだけど。
 
じゃあ社会性とかそういったハコみたいなものが取っ払われたとしたら、誰かを愛してもいいのかな?
娘と知っていて愛したのじゃなくって、結果として愛した女が娘だったら、それは許されるのか?
誰も傷つけなければ不倫は許されるのか?
サム・シェパードは赦されるのか、そして赦されるとしたら誰によって赦しは訪れるのか?
もとの妻か、自分自身か、死んだ娘(ジュリー・デルピー)か、神か?
 
わかんないよね、そんなこと。
 
で、再び自分のことであります。
おれは自分がとっくに赦されない人間だと知った。知っている。
地獄があるとしたら、死後、その業火に焼かれて当然だと思っている。でもそれだからといって現世を諦めるものではない。そのことだけは誓おう。
 
いろいろ書いても堂々巡りだ。
いつだって言葉は足りないんだ。
そして答えなどあったためしがない。
 
新聞のインタビューで読んだ、
天才写真家のアラーキーの以下の言葉は、
そういった問いに対する答えの一つかもしれないと思ったので引用しときます。
 
「陽子(40代でなくなったアラーキーの奥さん)亡き後、すべての女性が恋人になった」
そして、アラーキー前立腺がんになっても、碧眼になっても、生きとし生けるものを、森羅万象を「ヌード」として撮影しているんだ。
「心を裸にすることをヌードというのだよ」愛媛新聞2017/08/03)
 
「写真は真実でも現実でもなく、切実なんだ」
写真は、自分や他人を見続けるセンチメンタルなこと。結婚すること、生きること、その「時」が写っちゃう。カメラがセンチメンタルなんだな。もともと寂しがり屋なのに、カメラ持つから切実なことになる。朝日新聞2017/08/11)
 
・・だって!!
こんな素敵な言葉がスルスル出てくるんだからねえ。凄いです、師匠。