だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#397 音声入力ソフト「AmiVoice」(医療専門version)を導入しました。

Old Typewriter at douchebag urologist's office

 
(当然これもほぼAmiVoice入力して後で修正しました。)
 
電子カルテを使用してもどのぐらいなるんだろうな。5-6年間かな。
紙のカルテのときは、自分の手で色々書き込んだりレイアウトを微妙に変えたり、患者さんの顔をかいたりとか。
手書きでやって、患者さんが来る度に同じ紙カルテを出して、まあ表紙からめくってゆくので、記憶に比較的残ってる気がした。
でも、情報量としては非常に少なかったのかもしれない。
デジタルにしてからやはりキーボード入力なったので、入れる情報の量は格段多くなった。一応マウスで絵とかも書いたりしている。(これが非常に書きにくいのではあるけど)それでも見返すことはあまりないですけどね。
 
泌尿器科では、診療の形態上、自分の隣に医療クラークはつけてはいない。
当院の内科では、医師と医療クラークと看護婦さんがべったりくっついて狭い診察室で患者さんとあわせて4人で一体となって診察をしている。
あまり見たことないけど濃密な空間だろうなあ。
 
でも泌尿器科では、例えばちんちん見せてとか、性病の問診したりとか、オーラルセックの有無について聞いたりとか、そういうこと瞬時に聞かなければいけない場合もあるので、なかなかとなりに女の子の方がクラークさんに座ってもらうわけにもいかないのです。それでも女の方を診察するときには看護婦さんに介助してもらったり、はしてますけどね。
 
暇なときはそう苦でもなかったのだけど、患者さんが立て込んでて、特に泌尿器科では(内科でも一緒かもしれないけど)高齢の方が多いので、話がなかなか一筋縄でいかず、それをカルテに打ち込むとなると幾らキーボードの typing 早い自分でも、次の患者さんのことを考えると気が気ではなく焦ってしまうってことで、非常に消耗する場合も多いわけでした。だから、言われた内容の10分の1ぐらいを打つことになって、それしかできない自分にイライラして、疲れていたわけです。それは紹介状とか作る時もおんなじ感じでしたね。患者さんが診察室を出て、次の患者さんを入れる前になんとか紹介状をかきあげるというストレスフルな時間(あとでゆっくりというタイプの先生もおられると思いますが、先送りしてると一日の仕事は絶対終わらんのよねえ)。
 
ある日、電子カルテのバージョンアップの相談に業者の方に来ていただいていて、その時に、「最近の音声入力とかどうなのよ」とか話を振ってみたわけです。
iPhone で写真を撮ってそれを容易にカルテに取り込むとか、Apple pencilとかデジタルで患者さんの患部のお絵描きをしてそれを容易に取り込むとか、そういうことも含めてどうなんて聞いてみたわけです。
そしたらなんと今の音声入力は結構有力な武器ですよという話になって、電子カルテメーカーの方を通じて 「AmiVoice」 という医療専用の音声入力ソフトを1ヶ月デモで使わせてもらうことになったわけです。
 
自分はスマホの入力も結構  音声入力を使う派なのですが、あれは今ひとつですね。
そんなわけで、あまり期待せずに使ってみはじめたのですが、さすがに高い soft だけあって、医学用語もバリバリに変換してくれ、あまり自分の言葉を学習したりとかしないままでも、容易に使う事ができて、あっという間の1ヶ月が過ぎました。
患者さんの前でマイクに向かって話すのにはじめは躊躇していましたけど、便利さが躊躇さんに勝って、だんだん使う頻度が増してきました。
特に長文を入れるときに、一気に話して一気に変換されるのは快感ですね。今もこうして AmiVoice で入力してますよ。
 
そんなわけで1ヶ月たって製品を購入することにしました。
今も診療には非常に役立っております。患者さんもほぉと目をむいてたたまげてくれるのがまた嬉しいですね。
今日なんか、「あんたはそれをどこに連絡しとんや」と言われましたから、パソコンに連絡とるだけやから大丈夫ですよとお答えしましたよ。
 
さすがに患者さんと対話しているときには、使いませんけど。
お話やら診察が一段落したときに、「ちょっと待ってください、口で入れますね」と言って、今は入力させてもらってます。
すばらしいです。 IT 進化バンザイです。もっともっと AI が進化して、例えばロボットがとなりにいてくれて、あの疾患の鑑別はとか言ったら答えてくれて、みたいな世界がきたら、そのときには自分はもういらない人間かもしれませんけどね。
 
あまり単語登録とかもせず、ほとんどそのままで使ってる自分が、これだけすぐれものだというくらいなのだから、ほんとにすぐれもののソフトだと思いますよ。導入してよかったわ。
 
あはは。
 

#396 Faraway home 「京都」~坊主BAR~(2017/10/7-10/8)

 
京都といえば、大学浪人の時に2年間を過ごした街なので、少なからず愛着を抱いている。
でも、その時の京都からもう長年経ったわけで、今、観光で訪れている京都は全く別の街だと考えるのが正しいのだろう。
自分の京都に対する浅はかな知識とか、その時の空気の質感とかは、それはもはや己の中だけの幻の京都といった方が分かりやすいのかもしれない。
 
つかず離れず京都に出かけるわけだけど、外人が多かったり観光客が多いのは辟易する。
自分も観光客であり、通り過ぎてく人の一部のくせに、わがままなもんだね。
秋の紅葉を見に行った時なんか、宿がいっぱいで京都には泊まることすらできなかった。寺でも身動きできぬ状態で紅葉を眺めたものだ。
 
今回の宿は四条烏丸の辺りだった。ここも外人多かったわ。
風呂は大浴場あったのだけど、22時位にかなりの野郎ども。女風呂も同様だったらしい。
 
宿の案内をHPで見ていると、近くに「坊主Bar」というのがのっていた。
 
以前、松山道後の伊佐爾波神社の近くの「MAMMA」で鍋焼きうどんを食べた時、東温の方の住職さんとたまたまご一緒して話す機会があった。
彼が坊主の寄り合いで京都に行った時、坊主バーに行ったという話を聞いたのだった。その時には、巫女さんバーというのもあったんだとか、今はないとかそんな話もあった。それも頭の片隅に残っていてので、行かんといかんと思いチェックしていたのだった。
 
居酒屋で飯を食って、探し当ててたどり着いたのは、普通の住宅街の一角だった。
周りの風景に溶け込む形で坊主バーはあったけど、お客さんはいっぱいだった。電話をかけて3人のテーブル席を頼んでおいてよかったと思った。
 
自分のイメージでは、カウンターだけの薄暗い店で、カウンターで細々と坊さん相手に人生相談したり説法してもらうのかと思ったけど、まったくそんなことはなく、おしゃれな店内で、彼(店主=僧侶=坊主)は淡々と酒を作ってシェイカーを振っており、女性の助手が2人作務衣の様なものを着て接待していた。お酒の品揃えもかなり豊富で、これはこれはただものではない感じ。
 
我々は机の上に置かれた仏教楽器の「鈴(りん)」を鳴らして、注文を取りに来た女性にアレヤコレヤ尋ね、
イチローモルトを頼み(品揃え豊富でしたよ)、チーズの盛り合わせを頼んだ。
コースターの真ん中に観音様とか仏様の絵がちょこんと書かれているのが面白かった。
 
ちょこちょことだけど、店主と話すこともできた。
 
「大変でしょう」と言うと、本業が暇なのでそうでもないです、と言われていた。
次にはイチローモルトの話になり、このお酒こんなに人気が出ちゃってなかなか手に入れるのが大変なんですよ、と言う話を、嬉しそうにされているのを見て、この方は本当にお酒が好きなんだなと思い、なんだか嬉しくなった。
その後は山ぶどうのチーズの手に入れ方も教えてもらったりと、坊主である前に人間であり、人間としてあってその先の僧侶という、まあ初対面なのでそのあたりまでの感想だけど、なかなか味わい深い店のように見受けられた。
奥の団体客が帰る時には、コースターにサインをねだられていた。
彼の一挙手一投足がとても自然な所作であることにはやはり感嘆の念を抱いたりした。自然体なのだ。
そして我々がチェックして表に出ると、たまたまだけど待っていたお客さんを呼ぶために出てきた彼が「今はbusyなんですよね」と言いながらも、写真を一緒に撮らせてくれたのだった。
これまた、その写真をとてくださったのが通りがかりの女性という妙味。
なんだかおもしろい夜です。京都。
 
彼が帰り際にくれたToday’s Message(京都坊主BARの書庫だより)より
 
 
あらゆるものは別々のように見えても、その背後には全体である、統一された場が存在しています。この場では、観察されるものと観察するものが一体になっています。
 人を愛したり、星をじっと見つめたり、浜辺を歩いたり、音楽に耳を傾けたり、踊ったり、詩を読んだり、祈ったり、瞑想で沈黙したりしている瞬間、私たちは統一意識を味わっています 。
 意識が統一されていた瞬間、時間と言う障害はさっと取り除かれ、永遠という遊び場の中に入っていくことができます。この場所にたどり着いた瞬間、人はふとこんな言葉を漏らすものです 。
 「この山は息をのむほど美しい。時間が止まってしまったようだ」
 
【「富と宇宙とこことの法則」より】

 

 
悟りにはまだ程遠い自分だけど、山を見て、湖を見て、滂沱の涙を流せるうちは捨てたもんでもないのかもしれないな。
見ている自分も、世界から見られており、その見ている自分も見られている自分も宇宙の中の構成要素であるという奇跡。
だが、実際のシーンでは、バイオリンのplay失敗して不協和音奏でるばかりか、迷走してしまって、
その時世界は自分の手の中から非情にも逃げていってしまって、帰ってきてくれないんだけどね。
 
 

 

#395 そしてよりよく生きることと長く生きることの違いについてよく考える。

 

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朝日新聞9/30「医学部受験生への伝言」というものを読む。
 
秋を迎えて、大学受験シーズンが本格化します。相変わらず理系で人気の高いのが医学部。
来年入学する若者が医学部を卒業する2024年は、団塊世代がみな75歳以上の後期高齢者に突入する時期とほぼ重なります。
政府は超高齢化に対応した医療の体制づくりを進めていますが、はっきりしているのが将来の医療需要の変化。これまで医療の柱だった高度急性期や急性期の需要が減り、回復期の病院の必要性が増します。
回復期の病院では、高齢者の肺炎などの急性期対応はするものの、高度な手術はせず、在宅復帰に向けた入院医療を提供するのが仕事です。専門性が求められる脳疾患でのリハビリ病院とも別のものです。
一方、医師のキャリアの王道は、高度急性期や急性期の病院で働くことです。国家試験に合格後の医師教育も、急性期の医療現場で行われます。しかし、回復期の需要が増えれば、高度な医療技術を身につけたい多くの若手医師にとって「狭き門」となります。
ある現役医師は、急性期と回復期の医療需給のギャップについて、こう例えます。
「高級店のすし職人として育成された人が毎日、大衆食堂で肉じゃがを作る仕事をやりたがるだろうか」

 

「高級店の寿司職人の教育を受けたものが、毎日大衆食堂で肉じゃがを作る仕事を好むだろうか?」
 
今後の在宅医療とかへのシフトがますます予想される医学界について、
ある現役医師が言ったとか。
 
彼の発言はちょっとおごってるし、誤解を招きやすいかもしれないけど、彼の気持ちはわからんでもない。
 
再生医療とか、iPSで心筋が再生できるとか、それは夢の分野かもしれないけど、
鉄腕アトムが白黒のブラウン管にいた時代よりは遥かにリアルに近づいてきた。
 
ロボット手術とか、分子標的薬とか、IMRTとか、介護ロボットとか、64列のCTとか、
あたりを見渡すだけで実現された魔法のような医療はたくさんある。
HCVだって撲滅を視野に入れられるようになってきたじゃないか?
そのうち、医者の隣に幾百万ものデータを持ったペッパーくんが座っててくれて、鑑別診断を教えてくれる日だって来るだろう。
 
素晴らしきこの世界!
 
でもね、医学理念と医学の最前線を学んだ上でしか、一般医療とか回復期の医療は存在しないのだと思うよ。
 
はじめから在宅医療についての実務を学んでも意味などない。
家族への根回しとか聞き取りとか信頼関係の構築とかか、介護関係者とのやり取りとか、訪問介護との連携とか、
(本人との信頼関係が一番なのは当然として)
そんなものに関しての知識は、その患者さんの人生の終焉とか疾病の経過に関してのビジョンを持ちうる人にしかできないことなんだ、と、
 
こういうこと書くと、妙に誹謗中傷とか、
だから医者はいつも上から目線でしか見れんのよねとか、
そんなこと言う輩が必ず出てくるんだけど、
 
そして確かにこれも少しおごった言い方かもしれないが、
ほんとそう思う。
 
そしてよりよく生きることと長く生きることの違いについてよく考える。
 
*写真はダ・ヴィンチに引っ掛けてみました^^;

#394  雨と風の夜と、親父の声。

昨日は疲れたせいが早く床についた。
しかしそう簡単に眠れるものでもない。
 
それでかどうか夢を見た。
 
病院に電話があった。受話器を取るとおやじの声だった。
「わしゃお前の電話番号忘れてのぉ。この携帯に電話してくれんかな」
いつもの様に自分の用件だけを言って切った。
あーそうか、じゃあ親父の携帯に電話せなあかんのやな。そう思って忙しいままに時を過ごした。
診療が一段落して、あー電話せにゃいけんなぁと思って、ふと思い出してみると、もう親父はこの世にいないことに気づいた。
こんな感じで始まるなんちゃら詐欺もあるんだと思うけど、あれって一体全体何だったのかな?
みんな、きっと死んだ人を抱えてる人は同じことを思うんだろうけど、いまだに彼が此処には、この世にはいないのだということが実感できずにいるんだろう。そんな自分はダメダメちゃんなのか、それともそれはある種当たり前の事なのか、そして生きることと死んでいることの境界線とは何なのか、じゃあおれは生きてるって胸を張って言えるのか、とか、そんなことを思いながらもすぐに忘れて、今日の生きる理由を探す間もなく1日を終えている。
 
夜半になって雨足はひどくなり、風の音もガタガタと駄々をこねる男の子みたいにうるさかった。
一方でそれを感じながらも、やはり浅い眠りの中にいて動くことはなかった。
家人が起きだして窓を閉めている気配を感じ取ったけど、体はやはり動かなかった。
そんなこんなで枕元の iphone 見るともう5時だった。
 
そんな風に一日は始まるんだ。
 

 

Twitter

 
 
 
【蛇足】こないだ見た朝井リョウ原作の「何者」という映画のなかで、主人公の若者は、ことあるごとに twitter をしていた。
人と会いながらも、机の下で iphone を片手で打ってた。さりげなくね。そしてハンドルネームを2つ使い分けて、表の自分と、裏の暗黒面の自分とをうまく表出していた。その2つをうまく表出して自分の中の均衡を保とうとしているのだと思うのだけど、果たしてそれが彼にとってプラスだったのかは分からない。映画の最終では裏のtweetを否定する方向にstoryは流れてゆき、主人公はいたたまれなくなって好きな女の子のバイトしてる店まで全力疾走したりするんだけど、その行為だって本当はどうなのか誰にもわからない。
なぜそんなことを書いているかと言うと、140字で自分を表すと言うのは確かに国語的能力ではあるんだろうけど、それで終わらないものの方が世の中にはきっと多いだろうし、140字にして解き放ってしまったものはもしかしたら垂れ流しなのかもしれない。
そんな風に思うのは、自分が twitter 世代ではないからなんだろうけど、ね。
なかなかか 自らはtweetらしいtweetはできないでいるけど、いろんな情報を探すのにネットより twitter の方が便利なことも実感してるよ。
まったくとんでもない世の中なのに、ある意味ではいい世の中だな。誰かさんの心の中の声をたまに聞けた気になることだってあるしね。
 

何者

#393-2 ポタリングから帰っての昼ごはん。

 

細うどんを茹でて冷水で締めて、それとピーマンとしめじとなすとベーコンを炒めたものをあえます。亜麻仁油でコーティングしたレタスとまたあえましたよ。トッピングとして、トマトとチーズをのせていただきます。
これやりたかったんですけど、最期にいちじくをのっけますよ。
このとりあわせがなんかいいでしょ!
今日の昼ご飯でした。

#393 映画「何者」(2016)と、久々のポタリング

 
朝井リョウ原作の「何者」(2016)という映画を観た。
現代の就職活動の中での人間関係と彼らの変容を描いた小品だ。
なかなか興味深く見た。
自分は医者だし、昔の人間なので、ほぼ就職活動というものには縁がなく生きてきた。
大学を卒業して医師免許をとったら、その先は自分の大学の医局に入局してしまえば、あとは上の言われるがままにして、東へ西へ、北へ南へ、という感じで、研修だってそんなにきっちりした体系でもなかった(すみません。だから赴任先によって症例数とか違って不公平だよなあとか漠然と思うだけで、表立って口にするものでもなかったんだけど)。
その人事にもあまり疑いを抱いていなかったし、それは自分だけではなく、みんながそうだった。
その頃は医局を辞める人もそんなにはいなかったしね(それでも数人の先生がいろんなトラブルとかそんなことで去っていった。そして当然のごとく彼らの消息はほぼ知る由もない。)
今は結構自分の好きなようにみんなやってるような気がするけど、フリーターのお医者さんもいたりして、それはそれで大変なのかもしれない。自分は開業してしまったので、医局の人事のレールから外れたのだけど、大学の意向に沿っていろいろやっている人は大変だとも思う。
また話題がそれましたけど、これは一般企業に就職するために就活をしている若者たちの群像劇だ・・って言ってもたったの5人だけなんだけどね。
結局は人間らしく生きてるやつがいいよなーっていうとこで終わってしまって、なんだか当たり前の結論なんだけど、社会に属さない「何者」以下と自分のことを思ってる学生が、「何者」かになれるのか、まあ平たく言うとそういうことなのかもしれないですね。
でも自分が「何者」かなんて、本当は死ぬまでわからないし、自分の評価なんて他人がつけるだけの様な気もするし、もし今の自分が100%自分に満足できたら、もうそれはモチベーションが無くなって終わってる様な気もするし、相変わらずグダグダやってるうちが花なのかなとも思う。
今日、1年数ヶ月ぶりに自転車に乗ってポタリングをしたわけだけど、散歩したりポタリングをしたりしていると、自分がこうやって空気の中に包み込まれて自分の足で踏み出すぐらいしか人生の実感なんてないんじゃないかとも思えてくる。
人生の本番がいつなのか、いや今この「現在」が本番なんだけど、実は自分はずっと人生のリハビリをしてるんじゃないかなって、なんかそんなふうに考えたのでしたよ。
 
【蛇足】映画の面接シーンで、1分で自分のことを語ってくださいというようなのがあって、主人公は、tweetの140字みたいにまとめんと語れんよ、みたいなことを言ってたと思うけど、まあそういうふうにまとめる・まとめようって思うのが若いってことで、(自分も受験生のころは現代文の要約とか得意だったよなあ)、今の自分たちは、金魚の糞みたいにダラダラいろんなものを垂れ流しながら、いつ尽きることのない患者さんの話を聞いて、今度は自分の話も時には聞いてもらったりしながら、生きとりまっせ。わはは。

 

何者

何者

 

 

#392 「戦場のメリークリスマス」(1983)

戦場のメリークリスマス Blu-ray

 
やっぱり戦争の映画を見てしまいますね。
 
大島渚さんの1983年の作品「戦場のメリークリスマス」を、
デビット・ボウイ逝去記念にNHK-BSでやってたのを録画してあって、やっと観ることがかないました。
公開当時に観たはずなんですけど、全く失念しておりました。
 
たけしが例の笑顔で「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」って言うとこと、
坂本龍一演じるヨノイ大尉が david bowie演じるセリアズ少佐と抱き合う(ボウイの方から寄っていったのがホントですけど)ところしか覚えてないというお粗末さでした。
 
戦争は本当に狂気です。
狂気の中の狂気であるために、狂気がまともに見えてしまう。だからみんな判断基準が狂ってしまう。その狂気を箱の様な収容所の中だけで描き切った大島渚はやっぱり天才なんです。この映画、それに男しか出てこんもんな。すごすぎる、すごすぎる。そしてほんとに怖すぎる、すべての歪んだ風景がなぜか当たり前に見えてきて、いつか自分も銃剣持って英国人捕虜を監視してる一兵卒のような気分になってくる。1942年のジャワ島でね。
 
戦争が終わり、ハラ軍曹が処刑される前夜、ローレンスが収監所を訪ねて二人は昔話をする。
 
ハラは「死ぬ覚悟はできております」(I’m ready to die)っていう。
 
でもその言葉は、たぶん英国人であるローレンスの中に響いているものと、軍人であるハラの心の中のニュアンスとのの間に、戦争が終わったとはいえ、幾万光年の隔たりが永遠にあるんだろうと思う。
 
そう、端的にいうと、ヒトとヒトとは決して分かり合えないのかもしれない。
だからこれもいつも言うことだけど、分かり合えない前提で接していかんとだめなんだろうなあ、そうしていくしかないんだなあという諦念はいつも自分の中にある。
 
だけど、捕虜と帝国軍人と、ハラ軍曹(たけし)とローレンスと、ヨノイ(坂本龍一)とセリアズ(ボウイ)と、一瞬だけど心が通じ合うのは、やはりhuman beingとしての共通認識があるからなのかもしれないな。
 
だったら、捨てたもんでもないんじゃないの?
 
・・で現実世界を振り返るに、アメリカと北朝鮮、ドイツ、韓国、中国、フランス、インド・・わかりあえるなんてやっぱり幻想にすぎないんだと思う。
それでも追い求めるんだけどね。
 

帰ってきたヒトラー(字幕版)

 
同時期に観た「帰ってきたヒトラー」(2015・独)も、笑わせながら怖い映画だった。
ヒトラーが自決前の地下壕から現代のドイツにタイムスリップするんだけど、この世界では、彼はコメディアンとしてしか認知されず、しかしそのトークと風貌でどんどん人気ものになってゆく、そして・・という映画。
時代ややり方が変わっても、結局人間なんてそうそう進歩なんてできない。今でもどこかにヒトラーはいて、チョビ髭の手入れをしてるのかもしれないな。
 
ヒトラーは映画の中でもことあるごとにこういうんだ、「我が国民のために」って。
 
この国のAくんだって、病気から不死鳥のように蘇って、二回目の首相してるのは「我が国民のためだ」っていうんだろうしねえ。
 
だからおれはやっぱり、大義の中に生きていたくはないんだ。
そう思う点で、ただの小物なんだといつも気付かされて落ち込むんだけどね。
大義の匂いがするものなんていくらでもある。
宗教とか学校とか、組織とか、あげればキリはない。
自分だってその中にいるくせに、背中を向けたくなるんだよね。その時点で小物だってことか。そのくせいつも何かを欲しがっている。