だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#432 ♬「リベルタンゴ」と「Fly me to the moon」をやるよ。

 
素敵な人達、大事な人達、大切な人たち。
みんなみんな大好きな人達、そんな人と会いたい。
いや、会ってるよなあ。
 
満月を見たのは病院の帰りだったような気がする。
遠い遠い昔のような気がするのに、つい数日前のことなのかな。もう日が暮れようとしてますね。
 
今日もぐったりしてやっと帰ってきましたよ。北条のピアノのI先生の所に練習に行ってました。
誘っていただいて先生の教室のコンサートにゲストで出演させてもらえることになりました。
むちゃくちゃ嬉しいけどむちゃくちゃ緊張で、今日の日を迎えました。
でも昨日もたらふく食って飲んでグチュグチュになってるんですけどね^^;
先生のお宅で2時間ぐらい練習して、なんとか光が見えてきました。あとは自己練習あるのみですね。
I先生との出会いも、ふるぴーさんの会社の10周年パーティーで、
二人でお祝いに、「赤いスイトピー」をバイオリンとエレピでやったことから関係が始まったので、それも言うなれば本当に素晴らしい出会いです。
1回限りっていうことはよくあることですけど、それが長続きして、そしてまた二人新しいことがやれる(ほんとは胸を貸して頂いてるだけなんですけどね)なんて、ホント素敵です。
こないだは手を抜かないことが一番大事だとblogに書きましたけど、
出会いと冒険を恐れないことも大事ですよね。
たぶん自分に蓋をするのはほかならぬ自分ですからね。
 

#431 だから今日も明日も明後日も、 我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。,at 2018/02/24,night.

えらく、あいだが空いたけど前回の続きの話です。長いです。

 
愛媛大学泌尿器科には5年くらい在籍した。
30代の中盤をそこで費やしたことになる。まあいろいろあった。
医者というのはチーム医療のようであり、個人的でもあるのだなあと、今になって思い返す。
 
まあ、ほんといろいろあったよな。しみじみ。
 
今は、「自分の病院」ということで、病院という「チーム」で物事にたちむかっているので、昔よりももっと「塊でことに接している感」は増している気もする。
でも、振り向くと後ろには誰もいない感じも、常に同時にある。
ほんと併存してるんだ。
だから、自分を、自分を信じられる「自分」を作るために日夜努力はしているつもりだ。
 
それは簡単に言うと決して手を抜かないということだ。
当たり前みたいだけど、何事に関しても、「まあいいや」と思った瞬間から没落ははじまるのだから。
それと病気で休まないことかな。
決して精神的にタフなわけではないので(皆さんは嘘ぉと思われるかもしれないけど)、悩みは多々ある。
でも生死に比べたらそんなもんは取るにたらぬことだ、そう思うことにしている。
 
まあ、たとえおれがこの世から消えたとしても、その事自体も瑣末でしかないのだけどね。
 
なんか話がずれてゆくので元に戻すと、
愛媛大学の5年間でそれなりに医者としても進歩した。
(そりゃそうだよね)
 
泌尿器科って実は「外科」なので、やはり大学病院っていう基幹病院ということもあって、いろいろな手術もさせてもらった。
腹腔鏡手術の黎明期で、静岡に研修にも連れてってもらったなあ。
 
でも、やっぱりそれらは、「大学病院」とか「医局」という「場」に守られた医療だったのだ。
それを開業してから嫌というほど思い知らされる。
「親方日の丸」という言葉があるが、
自分個人が医者としてその頃信じていた「資質」は、実は「愛媛大学に属する医師」としての「資質」でしかなかったのだ。
技術とか能力と、それはまた別の次元において。
開業して「一人の医者」として診療をはじめて、いろんなことに気づいて、うちのめされて、
それで、ややタフになって、自分でイチから作り上げてきたものどもを思うと、感慨深い。
だから開業して、気づいたという点では、開業はプラスだったのだと思う。
こればかりは開業したヒトにしかわからないことですけどねえ。
 
大学勤務だから、教授に言われて(自主的ではありませんでしたねえ残念ながら^^;)研究もした。
バイトとか日常業務とか、手術とかに追われた中で、色んな人の助けを借りたり、論文を図書館で探したり(その頃はまだインターネットの黎明期だった)したなあ。
実験に使われたネズミさんたちにも感謝。
実験の方法を教えてくれた元同級生のS先生にも感謝。
自分の拙いアイデアに具体性を加えてくれた基礎の先生方や、的確なアドバイスをくれた教授にももちろん感謝だ。
 
結論から言うと、執念で「博士号」もとった。
実験だけでなんとなく終わる人も周りにたくさんいた。
自分は開業を決めて、大学を出て、日赤で2年弱の腎臓内科の研修をしながら、その間に英語で論文を書いて、
何回も外国とやり取りをして、やっと採用されたのだった。
アクセプトっていうのだ。
英語でacceptの知らせが来たときには(やはりネットではなく手紙のやり取りだった)、やったねという感じだった。
そして、開業してから審査を受けて、博士号をもらった。
長い年月だった。まさに執念だね。
だから、病院に展示されている「乙種博士」という紙切れが素晴らしいのでは決してない。
それにかけた努力とか執念が、自分の矜持になっている、そのことが素晴らしいのだ。
 
そう思う。
 

 
なんでこんな話になったかというと、
先日の夜の続きになるけど、
アマンダさんと入れ替わりの感じで、かわゆい女の子が二人やってこられたのだった。
あいにくカウンターに空きがなかったので、彼女たちは2Fに上がっていったのだけど、
アマンダさんが帰って、下の席が空いて、彼女たちが降りてきたのだった。
いろいろ話しているうちに、お母さんが大学の泌尿器科に勤められてた、という話になった。
 
で、彼女の名前をかんがみるに、
「ああ、S子さんだぁ!」ってなったのだった。
 
大学の泌尿器科の医局には常勤の秘書さんがひとりはいらした。
自分はその夜、われわれのお母さんみたいに接してくださったS子さんの、まさにお嬢さんと飲んでたのだ。
びっくり。どっきり。わくわく。
なんか胸が熱くなってきたよ。
自分にとっては、一時期ではあるが、
同じ職場と空間と時間をともにしたS子さんの素敵なお嬢さんの日常の片鱗も伺うことができて、
その横のクラスのマドンナの方の絵も描かせていただき、
われわれおっさん二人は天にも昇る気持ちになったのだった。
 
でもこんなことってあるんだね。
 
もしかしたら、今までもそうやって色んな場所で、巡り合うべき必然の方と何気なくすれ違ってるのかもしれないね。
ホント人生って面白いね。
 
だから今日も明日も明後日も、
我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。
 

#430 アマンダいわく,at 2018/02/24,night.

 

言葉でしか人間はコミュニケーションがとれないものなんだろう。だからこうやって、くどいけど言葉にして表す。言葉にして残す。
自分だけにしかわからないタームでつぶやく人がいるけど(ツイートでもそれが目的の人はそれでいいんだと思う、でもこれはたぶん自分のための言葉でもあり、10年経ったら自分はもう今の自分じゃないはずだから)、自分は10年経って読み返しても、誰でもが文脈を見てわかるような言葉で、文章というものを記しておきたいと思うんだよ。

だから逆に、くどくどしい言葉の壁を軽々と超えて行ける人は、自分にとってはちょっと羨ましいと思うんだよ。
でも実際そんな人っているんだよね。ほんとおじさんはうらやましいわ。

その夜は男二人で飲んでいた。
7-8人で一杯になるカウンターも男だらけだった。
音楽の練習で結構やりきった我々は、言葉数も少なく、ジャブを放つようにお互いを探りながら、飲み始めていた。
酒は徐々に体に回り、そして休息のタイマーが鳴った。

そうそう、今年から、30分飲んで1時間ブレイクを入れることに決めたのだった。
どうしてそんなことするの?誰か聞かれた。
お酒をやめることはできない。それと同じに大事なことがいくつもいくつもある。それに均等に取りくむためには、二日酔い時間を減らす以外時間を捻出することはができないことが分かったんだ。お酒の絶対量を減らすためには途中でブレイクを入れる以外、愚かな俺では思いつかなかったんだ。1時間やめたあとはいつものように飲むのだから、それって意味があるのかどうか定かではないけど、でも1時間は休む。

閑話休題

そして、カウンターの左端の男性が帰ってからしばらくたって、彼女が一人で入ってきて、僕たちの隣に腰掛けた。
いつのまにか(そう、ほんとにお酒呑みたちの時間はいつもいつの間にかなんだよね)、彼女はマシンガンのように喋り始め、僕らはいつしか彼女の虜になっていたんだ。

僕達は音楽という武器で、お互いのパッションを言葉にしたいと考えている。多分相棒もそうだろう。
相棒はトランペットで、自分はアルトサックスとバイオリンで。
ふたりは貪欲に、もっともっと幅も技術も増やしたいと思っている。
多分僕たちはもっともっと高みに行けるだろう。行けるはずだ。
酒の力を借りてハイになった我々は、そんな夢のような瞬間を共有しながら飲み続けるていたのだった。

話を端折ってしまうけど、そんな流れの中で彼女がこう言ったんだ。
「チャンスは人の形をしてやってくる」って。
思わず相棒に言ったね
「メモっとけメモっとけ」(自分もiPhoneのなかのEVERNOTEにつぶやきました^^;)

この酒場で大将と知り合って、
大将からの紹介で、彼(相棒)が自分がプレイしている音楽の場にやってきて、
そして二人で飲んで、二人で音楽をやることに決めた。
二人で練習して、重い楽器を下げてこの酒場にやってきて、
二人で飲み始めて、そして彼女がカウンターの隣に座った。

それがいつしか、偶然から偶然以上のものに変わっていく。

自分のまだ短い人生を振り返ってみると、ここ数年の間にそういった素敵な出会いがたくさんあるような気がする。
どうしてだろう?肩の力が抜けたせいなのかな?わかるわけないよね。
ただわかるのは人生の可能性を自分の手で有限にしてはいけないってことくらいかな。
どんな年になってもきっとあがき続ける限りは可能性は残されているんだと信じよう。

たとえ、巨人に食われて死ぬとしてもね。

はじまりは、やっぱり、人とこうやって言葉を交わすことが最初なんだ。
SNSやblogでの出会いもあるけど、
酒もあって、美味しい料理があって、この店と大将の醸し出す空気もあって、そして我々だってその場を構成している要素であり、夜の闇があり、そこでマジックが生まれることだってある。
朝の太陽の下でそれらが嘘じゃなかったかどうか決めるのはあとでもいいはずだ。

そう、まさにチャンスは人の形をしてやってきた。

いつだって、今だって。

そしていつものように彼女の絵を描かせてもらいました。
サンクス、アマンダ!サンキュー。

ぶち切れたような文章の終わりですけど、これでその夜の第1弾の話は終わりです。

#429 「ビートルズの優しい夜」小林信彦

小林信彦ビートルズの優しい夜」(S57)という本を何故か再読し始めた。

 

短編集なので、暇がある時に1編ずつ読んで、今日ようやく読み終えたのだった。
ビートルズの優しい夜」(1966)「金魚鉢の囚人」(1974)「踊る男」(1978)「ラスト・ワルツ」(1982)から成り立っている。
そして、ジョン・レノンがチャップマンに射殺されたのは1980年のことだ。
自分はその翌年に大学に入学したのだった。

 

TVの黎明期からその1982年までを、自らのクロニクルのように小林信彦氏は描いた。
今、なぜこの文庫本が脳裏に浮かんだのかは不明だ。
でもそういえば、こんなタイトルの小説があったよな、と、探して、本棚に埋もれているのを発掘したのだった。

そして、小林氏の描いた時代から、今も、我々はこの「狂詩曲(ラプソディ)」を踊り続けている。

 

もう、いい加減、舞台から降りてもいいんじゃないのかい?
毎日、心の奥底でそう呟く男の声を聞く。
肩の力を抜いて、ゆっくり目を閉じて、大きな呼吸をするんだ、それだけでもずいぶん違わないかい?

 

力の抜き方をとっくに忘れてしまった。
酒に麻痺させられて弛緩していると、眠っている時間が、それに近い行為のように思う。
ジョンが歌ってた歌を、時々思い出す。
Stop bleeding now 血が流れるのを誰か止めてくれよ

 

最後のページに「生きながら埋葬されてゆく時代の・・」という言葉が記されている。
もうそんな言葉なんて聞き飽きたような気もするけど、
この4篇のstoryの最後に配備されたこのセンテンスは、やはり今でも、ちょっと胸の奥のしこりを刺激する。

 

力の抜き方を忘れてしまった今では、もう鈍い痛みでしかないけれど・・。

 

 

ビートルズの優しい夜(新潮文庫)

ビートルズの優しい夜(新潮文庫)

 

 

#428 Blue in heavenと中村ハルコさんの写真。

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(写真撮影可だったのでとらせてもらいました)

 

 

目が覚めると午後のだるい光
遠くで羊が草を食んでいる
戦車の砲弾が作ったくぼみに泥水が溜まっている
その水辺で鳥がさえずる

 

死んでいった友達が白いドレスで微笑んでるよ
ここは天国?ここは地獄?
まだどちらにも行けそうもないのでここにいるよ

 

この場所で息をして
この場所で笑って
この場所で泣くんだ

 

そろそろバッカスを呼ぼう
そろそろ火を起こして食事の支度をしよう
夜はまだまだ冷えるから温かいお酒も必要でしょう
ブランケットの中の君の温もりを覚えている

 

あの日
バイバイした君の指は氷のように冷たかった
でもまた
きっと君には何度かは会えると思うんだよ

 

BLUE IN HEAVEN
天国に絡まって
天国にもつれて

 

 

 

 

 


確か、夏(2017.8.20)に、東京都写真美術館に「アラーキー」を見に行ったのだった。
そのときに、併設されていた写真たちの中の少女が目に止まった。
中村ハルコさんというフォトグラファーの写真だった。
”「光の音」より”の写真だ。
この写真をみながら、昨日の夜に描き上げた。
トスカーナで撮られた写真だそうな。
この写真にinspireされてできあがった自分の絵は、この写真からだいぶ離れてしまったものの、なんとか完成したのだった。
そして、
できあがった自分の絵は、
先日も述べたように、もはや自分の絵であってそうではなく、
見るときには、もう自分も一観客としてその絵を楽しんでいるのだった。

今調べてわかったけど、
写真家の中村さんは膵臓がんでなんと44歳で他界されたのだそうだ。
なんてことだろう。
ありがとうです、中村さん。

#427 ちっちゃな送別会と、「夜の雲」

 
当院に、卒業してから5年間勤めてくれた透析スタッフが、地元に帰る。今月いっぱいの勤務だ。
そちらでも臨床工学技士として働く予定だ。
なかなかできた若者で、ホントはずっといてほしいやつではあるのだが、なんせ本人の決めたことなので仕方ない。
新天地で、もっと成長してくれることだと思う。
同じ県内なので、また学会で会うこともあるだろう。だから寂しくないけど、ヤッパリ寂しい。
 
思えばいろんなスタッフがいろんなことで辞めてった。
人間関係がやっぱりメインなのはどこの職場でもおんなじだろうし、嫌なやめ方もたくさん見てきた。
自分に力がなかったケースもないとは言わない。
残り少ない人生、できれば好きな人とだけ付き合ってゆきたいがそうもいかない。
信じないだろうけど、我が子はみんな可愛いのだよ。
だけどやっぱり統べるものとしては「評価」しつつ接しなければならない。
経営とは一人で洞窟を穿つような作業だと思うときもある。
まあ誰も信じてくれんだろうけどね。
 
そんな彼と、昨日は飲んだ。
「笑楽」でうまいものを喰って(それにしてもでかいカキフライだった!)、よたよた喋って、
最後には、
探し当ててたどり着いたBar「宝樹」で、
こないだ飲んで帰ってからゲロ吐いた原因の一つとなった「栗のカクテル」をみんなで飲む。
やっぱり甘くってとてつもなく美味しいよ!
そしていつものように街角で手を振る。
 
光陰はほんとに矢の如しだ。
もう20年だよ。開業してから。
最初は独身で入ってきた男の子やら女の子やらが、結婚して子供うんで、女の子はまた職場復帰してくれたり、生まれた子供がもう大学生になるとか、そんな話を聞く。
びびるよね。
おれはその人達の少しは支えになってるのかな?
 
でもね、大杉漣さん、あんたは少し早すぎたよ。
TVドラマ「居酒屋ふじ」で、「陰毛占い」する大杉漣さん観たのが最後だった。
今から思えば、笑えて、そしてなんだか哀しいね。
大森南朋さんのうたう「夜の雲」のように、漣さんも、うっすらと夜の闇に紛れて流れていったと思うことにするけれど・・。
 

 

#426 「君よ憤怒の河を渉れ」(1976)を観る。

時間があえば「STARWARS」の上映が終わってしまう前に観れるかなあと思ったけど、そんなに都合よくいくわけもない。
何かを得るためには、何かを捨てなければならないのだろう。
やっぱりね。

鋼の錬金術師」の等価交換とはよく言ったものだ。
等価というよりも、きっと失うもののほうが大きい気もする。
でもそれそ捨てて選んだ物の価値はきっと小さくはないはずだろ。
そう信じて進んでゆくしかないんだと思うよ。

そうやって、この人も生きてんだろうなあと、
昨日「もうおれは古希だよ」っていうもう一人の似顔絵描きのMさんと飲んでて思った。

最初は普通に世間話みたいなジャブ会話を美女を交えて3人で楽しんでいたはずだが、
やがて二人で椿倶楽部のnewスタッフ描かせてもらったころから、
いつもの「酔っ払い画伯対決モード」に突入、
隣の席のカップルに、「こも前絵を描かせていただきませんでした?」とか話しかけたら、
なんと奈良からの観光のカップルでそりゃ初対面だよね^^;
で、奥様描いて、写真撮って、

道後のヘルスストリートを歩いてたどり着いた二次会の「Mayudama」では、
最初カップルの男の子に警戒されながらも、
描いたら描いたでお二人にはえらく喜んでもらえたのでした。

ええオッサンが、美女に、
「描かせてもらっていいですか」の舌も乾かぬうちから二人で美女を取り巻いてもう描き始めてるんだもんねえ。
面白いよねえ。

 

君よ憤怒の河を渉れ

君よ憤怒の河を渉れ

 

 

そんなわけで「君よ憤怒の河を渉れ」(1976)である。


思えば、高倉健さんも原田芳雄さんももうこの世にはいない。
でもこうやってフィルムに残って今でも動いている。それが奇跡のようで不思議だ。
この映画で芳雄さんが演じるのは捜査一課の矢村警部だ。
もうなんかワイルドで粗野で一匹狼で侠気のある警部なんだよなあ。
この作品、ジョン・ウー監督がリメイクして「マンハント」というタイトルで上映してると聞いた。
福山雅治さんが出てるそうですよ。

 

原作の西村寿行といえば、
浪人時代には、西村寿行さんの本ばっかりを暗い暗い予備校の寮の部屋にこもって読んでいたのを思い出す。
当然予備校にもゆかずに、
昼に起き出して、
上賀茂の「王将」までトボトボ歩いていって、餃子と天津飯を食べて、隣の小さな本屋で文庫本を買って帰る。
そんな2浪目だったよなあ。

さて、それにしても、一体全体「憤怒の河」を渡ったのは誰だったんだろうな?

 

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