だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#499 おはよう世界

おはよう世界!
 
しかし毎日毎日よくあんなにも大量のうんこが出るもんだな・・
トイレに流されてゆく一物たちを眺めながら今思った。
どんなに悲しかったり、悔しかったり、ハッピーだったりしても、うんこは出るし腹は減るんだよね。
 
面白いね生きてるって。
 
そして、人間なんてほんとにしょうもないことしか普段は考えてないよね。
人間が、ときに、哲学的な存在になれるのは、多分作ったというか作り上げたものの中にしかないのかもしれないね。
本能で生きてるときは、ネアンデルタールに毛が生えたくらいのものだろうね。
だから後世に残すために、「書物」(そしてそれを拡散する印刷技術か?)と言うのを発明したのが、多分人類の分岐点だったような気がするよ。
書物がなかったら、いまでもやっぱりネアンデルタール止まりかな。
そして書物とともに、音楽(楽譜)という素晴らしい財産も人類は持っている。
 
自分の人生なんて、
例えば記載されとすれば、
生まれて医者になって病院を作ってやめて死ぬ・・それだけの記載だろう。
多分99%の人はそんなもんだろうな。
そして自分には必要ないけど、
ありがたいのかありがたくないのかわからない戒名なるものをプレゼントされて、
墓石に刻まれて、なんてね。
 
でも逆に言うと、それだから生きてるうちに何をやってもいいんじゃないかな、
なにもやらんでも一緒だっていう人もいるだろうけどそれはその人の生き方、
 
というまんざらでもない気分の朝。

#498 54歳からのピアノ その12  「ピアノの森」と、ピアノとカホンの発表会に向けて

TVアニメ「ピアノの森」 Piano Best Collection II

TVアニメ「ピアノの森」 Piano Best Collection I

TVアニメ「ピアノの森」 Piano Best Collection I

 

 

土曜日は、診療終了後の午後3時から、スタッフと一緒に病院の周りの溝掃除とか草引きをした。
1年に1回の恒例行事で、薬局の先生も出てきて一緒にやった。
いやー、慣れないことをすると体中がぐったりするね。
その後雑用して帰宅する。
 
寝るまでの1時間で、録りためていたアニメ「ピアノの森」を見始める。
始めると止まらないよね、やっぱり。
アニメは第2部で、劇中では「ショパン・コンクール」が進んでゆき、登場人物たちのドラマが錯綜する。
カイくん、雨宮、パン・ウェイ、シム、アダムスキー、阿字野壮介、ジャンじい・・。
 
ーーーー
 
音楽も、絵も、天は悲しい事に「人」を選んで才能を与える。
選ばれないオレたちは、だからいくら努力したって、天才にはかなわない。
たとえ、天才が1%のひらめきと99%の努力だったとしても、所詮無理な話だ。
 
でも、それだから芸術を楽しめないのかというと、そんなわけでもない。
それなりに音楽やスケッチの方から、自分に微笑みかけてくれる瞬間もある。
だからやめられないのだ。
天才たちが、自分の音や描線を楽しんでいる、その時のそエクスタシーの瞬間にちょっとでも近づきたくて、自分もトライするのだ。
それは無謀なことなのかな?
意味のないことなのかな?
 
ーーー
 
さて、悲しい現実を直視してみる、自分のピアノの話である。
 
進歩面でいうと一番少ないのかもしれない「piano」なんだけど、
やはりトライせんことにはねということで、
島村楽器」の発表会で、拙い演奏を披露することにした。
「豚のブルース」と「Fly me to the moon」だ。
途中で止まってもいい、でもそこでフリーズしないで、立て直して次にゆくことが今の精一杯の目標だ。
一ノ瀬海くんみたいに、自分の「音楽」と呼ぶには程遠いけど、それが今の自分の精一杯だ。
 
これも粛々とやってる「カホン」では、
山本リンダさんの「どうにもとまらない」を先生と一緒にプレイする。
リズム楽器ってやつは、確かに太古からあるだけあって、リズムがハマるとあれはホント「エクスタシー」だね。
音楽を初めて、ビートになかなか乗れずに、悶々としていた自分は、ある日楽器店で、ドラムの先生の背中に手をかけていったのだ。
「リズムが学びたいんです」と。
その時の自分だけは褒めてやってもいいかな^^;
 

#497 虫になったらよろしく ByeByeミチロウ!

 
スターリン」の、いやスターリンというククリなしでも成立する「遠藤ミチロウ」さんがなくなった。
膵臓がんだったという。68歳。
 
数年前、松山のバーに弾き語りでこられて、その時は膠原病でしばらく入院していたと言われていた。
それが生の彼を見る最後になった。
何十年か前には、二番町のディスコで、スターリンとして見た。
土曜の昼だったな。それが最初だった。中村達也さんが女物のパンティーをかぶってドラムを叩いていた貴重なライブだったけど、豚の臓物はなかった。
会場から出たら外はとても明るい昼で、なんかクラクラして、この世界はあのミチロウのいた場所とほんとにつながってるんだろうか、と、思ったのを覚えている。
 
遠藤ミチロウさんには、自分と同じような世代の人は、どこかで一回は打ちのめされたことがあると思う。
 
異世界だった彼の歌や、豚の首を投げたり、ライブでフェラチオさせたりという過激な行為や、それらと全然相反するするインテリジェンスは、まるでカルヴィーノの「真っ二つの子爵」みたいに、2つに引き裂かれた人間を見ているようだった。
 
だけど憧れた。ミチロウ。
 
いつも言うけど、田舎のガキだった自分にとって、スタイリッシュなパンクは異次元の世界だったけど、その中でも遠藤ミチロウはもっともっとstrangeだった。
 
彼に教わったことをたくさんあるだけど、それを言葉で言うのは非常に難しい。
 
ワルシャワの悲劇 ストップジャップ コルホーズだらけのタマネギ畑 お母さんいい加減あなたの顔忘れてしまいました カノン 
 
一体なんだろうね?
わからないけど、自分の中にいる、いすわっている赤い拡声器を持ったミチロウは、今もモニタースピーカーに足をかけて、虚空を見ているのだ。
 
ミチロウ、ありがとう。
 
そんなわけで、また落書きを描いたよ。
スターリンの2nd「虫」のジャケットのパクリだよね。

 

GO GOスターリン

GO GOスターリン

 
虫(紙)

虫(紙)

 

 

#496 あさアニメ、仕事、バイオリン、お絵描き、うちごはん、よるアニメ。 2019/05/07

 
連休明けの初日の外来だった
なんか体がなまっているせいかしんどく進んでいった。それでもなんとか終わるもので事なきを得た。
午後からスタッフの面接をして、それからなんとかバイオリンの練習をちょっとだけして、
17時からバイオリンのレッスンに行った。
 
エミフルで軽く夕ご飯の買い物をして、
今宵はちまちまとした居酒屋メニューにしようと思って、たくさん作ってみた。
 
・穴の大きいちくわを見つけたので、ちくわの中にきゅうりをぶち込んでマヨネーズと七味とうがらしと醤油で食べるという「お多福」で教わったちくわきゅうり。
・ローストビーフは二種類のソースと柚子胡椒で。
・ソラマメを皮ごと焼いたもの
しじみの味噌汁
・だし巻き卵(ちょっと火を通しすぎてふわふわじゃなくなったけどね)
・お惣菜ミルフィーユハムカツ
・ほうれん草のおひたし
・ご飯
・・てな感じのうちご飯でしたよ。
 
犬の餌。
うちの犬のかたっぽが下痢してて、食事取らない。少し心配。
 
そして最後までみとこうと思って、
ブギーポップは笑わない」のオーバードライブ編を5本見て、これから寝ますよ。
 
日本のアニメは本当に素晴らしい。
その日の朝は4時くらいに起きて、溜まっていた「ブギーポップは笑わない」シリーズをみた。
今回は「vsイマジネーター」編だ。
こんな重層構造の物語を、若者はたやすく理解してしまうのだろうか?
きっとそうだろうね。
昔みたいな、水戸黄門式の物語もカタルシスがあってもいいかって思うけど、
こんな話は、自分が若かったら本当に勉強そっちのけでハマっただろうな。
ほんとゲゲゲの鬼太郎の「名無し」とか、
新しくNHKではじまった「進撃の巨人」とか、言い出したらキリないなぁ。
なんせ感無量である。
 
そんなわけで落書きの「ブギーポップ」、
誰にでもやらせちゃうという、人間にあらずの、織機綺ちゃんでした。
 
 
もう今日もヘロヘロだよ。
みんな良い夢をね。
 

ゲゲゲの鬼太郎 / 見えんけれども おるんだよ

TVアニメ 「 ブギーポップは笑わない 」 オリジナルサウンドトラック

#495 TAIPEI 2019/04/27-30 ④ そんな九份の街をバックにまたまた発作的に描きあげた絵を。

 
一昨日の夜は、自宅で食事の後に、「千と千尋の神隠し」(2001)をまた家族でみる。
家族で一緒に映画をみるなんて、ホント久しぶりだな。
 
台湾3日目は、朝ホテルからピックアップしてもらって、台北からクルマで1時間弱くらいだったかな、「九份」観光に行く。
 
九份の風景が「千と千尋」の映画に出てくる湯屋あたりの光景と似ていると言うことで、九份の街の土産物屋には「顔なし」の人形やらいろんなものが置いてあった。
 
でも調べてみると、どうもジブリ側は、九份がモデルであると言うことを否定しているらしかったんだけどね・・。
ガイドブックや町の謳い文句ではそんな感じだったし、みんなもそれをもとてている感満載だったし、もちろん我々もだ。
まぁ世の中、ほかにもそういう名乗りあげてるところはところはいろいろあるんだろうね。
 
ちょっと嬉しいのは、道後温泉本館は、確実に「千と千尋」の湯屋のモデルになっていると、宮崎監督が明言してるとこかな。
 
九份の街は今では観光地として有名だけど、昔は台湾の人もひっそり行くくらいのところで、映画「悲情城市」の公開で台湾でも知られるようになり、その後の「千と千尋」で日本人が大挙するようになったと、現地ガイドの呉さんが言われていた。
 
それにしても、久々にみる「千と千尋の神隠し」はやっぱり凄い物語だった。
 
そんな九份の街をバックにまたまた発作的に描きあげた絵を。
 

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

 

#494 TAIPEI 2019/04/27-30 ③ 帰ってきて、何も知らなかったことにびっくりする「悲情城市」という映画を家族でみる。 

悲情城市 [DVD]

 
台湾のこと何もわからないまま、調べぬまま、台湾に行った。
 
台湾でいろんな観光もした。
衛兵の交代とか、中正記念堂とか、「千と千尋」の風景という九份にも行った。
慌ただしくも故宮博物館も行った。我々だけで、台北101にも登った。
蒋介石を讃えた「中正記念堂」で、現地ガイドの呉さんは、「蒋介石の偉業に関しても諸論あります」とやや口を濁した。若い人では彼のことをもう知らない人もいっぱいいます、と。
 
帰ってきての昨日の夜、家族みんなで、台湾を世界に知らしめたと言われる映画「悲情城市」(1989)を見た。
数十年の長きに渡って敷かれた戒厳令がとかれた1987年から数年で、この映画は制作された。
戒厳令下では、人々の口には重しが乗っかっていた。その後、台湾の民主化が一気に進んだという。
その、重く封印されていた2・28事件赤狩り?)のあたりを背景にした映画が、前述した「悲情城市」だ。
 
以下は、Wikipediaよりの引用
 

白色テロ時代[編集]

白色テロ時代」という語は広義には1947年の二・二八事件から1987年に戒厳令が解除されるまでの期間を指す[4]。台湾では二・二八事件以降、中国国民党(国民党)により国民は相互監視と密告が強制され、反政府勢力のあぶり出しと弾圧が徹底的に行われた。白色テロの期間、蒋介石率いる国民党に対して実際に反抗するか若しくはそのおそれがあると認められた140,000名程度が投獄され、うち3,000名から4,000名が処刑されたとされる[5][6]。大半の起訴は1950年から1952年の間に行われた。訴追された者のほとんどは中国共産党のスパイを意味する「匪諜中国語版」のレッテルを貼られ罰せられた。
国民党支配に反抗したり共産主義に共鳴したりすることを恐れ、国民党は主に台湾の知識人や社会的エリートを収監した[5]。例えば、 台湾再解放連盟は1947年に設立された台湾独立運動の組織であるが、国民党はこれを共産主義者の統制下にあるとして、その構成員を1950年に拘束した。台湾独立建国連盟は同様の理由で政府により迫害された。しかしながら、このような明白な理由付けはなされない政治的迫害もあった。1968年には柏楊ポパイの漫画の翻訳における言葉の選び方を理由に収監された。 白色テロの犠牲者には外省人も多数含まれる。外省人の多くが国民党のおかげで台湾に避難することができたのだが、同伴者を伴わずに台湾に到着すると、現地の台湾人と比べていいように使い捨てられることがしばしばあった。柏楊李敖のように白色テロを生き延びた外省人の多くは民主化運動や国民党改革を推進するようになっていった。1969年に後に台湾総統となる李登輝は、「共産主義運動」に参加したとされ、台湾省警備総司令部中国語版により1週間以上も留置され尋問を受け、「お前を殺すことは蟻を踏み潰すくらい簡単だ。」と言われたという[7]

戒厳令解除後[編集]

1987年の戒厳令解除とともに二・二八事件白色テロの話題に触れることを人々は次第に恐れなくなっていった。1995年には李登輝総統による謝罪がなされ、犠牲者やその遺族に対して補償をするための二二八事件記念基金会が設立された。2008年には台北馬英九総統により白色テロの犠牲者追悼式が行われた。馬は犠牲者とその遺族に対して政府を代表して謝罪し、台湾が同様の悲劇を二度と経験することがないように望むと表明した[8][9]
 

 

 
われわれは隣国なのに何も知らない。
 
日本だって戦後アメリカの支配を受けて、朝鮮戦争とかを経て、経済成長があって、オリンピックやら万博やらがあって、奇跡的な経済成長を遂げて、今の日本になった。
 
日本人は、天皇陛下玉音放送も、今はテレビのドラマで聞いてなんとなく日常の風景として捉えているだろうけど(自分もそうだ)、あの時は国はほんとにボロボロだったんだと思う。そしてアメリカによる強制的な価値観の転換を強いられたのだろう。
 
江戸時代が終わって明治になり、近代化が進み、日本人のアイデンティティーが士農工商から随分変わって、それこそ森鴎外が「舞姫」に描いたような世界も出てきたときの苦悩。夏目漱石の苦悩。
その時も大変だったろうけど、1945年の敗戦後も大変だったろう。
そしてそんな大変は、「台湾」にもあったんだ。
 
昭和35年生まれの自分はまさに高度成長期とともに生きてきたんだろう。
そし今こんな時代になるなんて誰に想像できた?鉄腕アトムに描かれた時代に近いものだってたくさんあるじゃないか。
 
・・なんて老人の繰り言みたいなことを言ってみたりするけど、
だからどうだとじゃ言いたいのではない。
 
ただ、外国に行って、いや台湾に行ってよかった。
いろんな価値観があることがわかっただけでもね。
まあ、自分の国のことだってろくすっぽわかっちゃないんだよね。
そしてそれはどこの国でも一緒なんだろう。だから争いは決して無くなることはないということも。
 
だから、
おれは、死んじゃいないけど、また生きようと思うんだ。謝謝。
 

#493 TAIPEI 2019/04/27-30 ② 桃園空港行きの機内でも、やっぱり絵を描くのです。

 
台北初日。
 
4月27日土曜日仕事を終えて車で高松空港
 
 
自宅に昔のスーツケースはとってあったので、久々に引っ張り出してみるけど、
昔々のスーツケースはそれはそれは巨大なので、
娘と相談し、各々、リュックでということにする。
かなり荷物絞ったけど、それでも今回は流石にリュック・パンパン。
 
 
行きのフライトは19:10発。
なんて言うのかな、
東南アジア系というか、中国とか韓国とはまた違う顔立ちのキャビンアテンダントさんを見ながら、
また発作的に絵を描いてしまいました。
旅の友としてのiPAdProは必需品となりました。
 
 
ホテルまでのpickup車中で、
両替も20,000円していただいたので、
ついてから、セブンイレブンでビールとスナックを買って、飲んで寝る。
164元・圓(ユアン)(のちには日本円OKよ、と言われた店もあって、我々もラッキーとばかりに万札出したけど、そういったところでは、アバウトに1元4円で計算されとる感じだったなあ。ホントはもうちょっとレート低い感じなんだけどなあ・・)。
品揃えは日本ほど豊富ではない。
 
もう夜中だ。