だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#88 村上龍「音楽の海岸」をめぐるあれこれ。

音楽の海岸

1週間かけて村上龍の「音楽の海岸」をようやく読み終えたところ。


この読み進むのがheavyな小説をそれでも読み進めるのはなぜなんだろうか、それもねえ今日は二日酔いでダウナーなのにねえとか、と自分に問うてみたりして、結局答えは見つからなかった。
 
何度も死にかけて、今は北海道の療養所にいる主人公・ケンジの病気の妹は、こう言う、
 
「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。
他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」
「誰かが自分のことを気にかけてくれているというのは、生きていく希望にならないわけでしょ?他の誰かの働きかけなんだからね、音楽はそうでしょう?
音楽のすべての要素は、他の誰かの働きかけと、その誰かの反応だから、どういうことかわかる?」
 
いやあ、まったくわかりませんねえ。
 
ただ希望のないこの国に響くホントの音楽などもともとないので、
ニースからモナコの途中にある岬で聞こえる「音楽が鳴る海岸」、そこで聞こえる音楽は、情報も知識も、コードも必要がない、
そこで聞こえるのはからだの中で何かが開いていくそんな音楽なんだ・・
という、ジゴロをやってるケンジがしがみついているエピソード、それすらも彼女の作り上げたstoryにすぎないという事実を知らされて、
それでなにが変わるかというと・・
 
storyはdetailを埋め込まれて続けていくと、
いつの日か、それを考えなければならなかった悲しくて卑屈な人間の妄想を通り越して、
ある永遠の一部を切り取ったようなものに代わり、
あるいは希望に置き換わるのかもしれない。
という否定的な展開の転換による言及でしか「希望」は語れないのかもしれないという話になり、
 
だけど、そうだとしても、不快で、自分を不安定にした、いろんな具体的な出来事と、それが意味していたものを、決して忘れてはならないのだとやはり主人公のケンジのようにおれも思うわけで・・
 
そういうことなんだろうか?
 
おれが、こうやって酔ってさまよい、誰かにぶちのめされ、誰かに罵倒され、誰かに何かを開いてもらう、そんな些細な事の繰り返しから自分を確かめるしかないのかもしれないじゃないか、実のところ・・・ってことなのか?
 
だからね、ミスター、やっぱり楽器を吹くってことは、聴く人がいる前提での行為であって、
やっぱりおれはマスターベーションだけじゃないと思うんですよね。