だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#123「シズコさん」佐野洋子を読み終えた真夜中に。(2014/10/17-19)

佐野洋子さんの本を読んでいる時は、頭の中から佐野洋子さんが出て行かず、仕事をしているときもどこか部屋の片隅に佐野さんがいるわけで、それはナニモノにも代えがたい経験でもあり、恐ろしい経験でもありました。

その佐野さんの書かれた「シズコさん」という、ご自身のお母さんのことを綴った、エッセイなのか小説なのか摩訶不思議な本を三日間かけて読み終えました。
この本を読む前で、一旦佐野洋子読書歴は完結していたのですが、またこの本を手に入れることができてしまって、ある日読み始めたわけですが、やはり彼女の世界から抜けきれずに、読み終えた今ボーっとしています。
 

シズコさん (新潮文庫)


前も書きましたけど、お盆前から、Audio機器が稼働せず、映像レスの世界にいるわけですが、その環境というのは、結構ここちの良いもので、本を自分の速度で1pずつめくっていくというのはやはり人間が古くから慣れ親しんだ読書快感なんだなあと改めて思わされてますよ。もしかしたらiPhone6plusなんてなくっても全然困らんのかなあと思いながらもイライラして到着を待ってるわけですが^^;
 
ご存知のように、佐野さん自身も乳がんの全身転移で亡くなられました。
自分はその晩年のエッセイから入ったわけですが(「100万回生きたねこ」は知ってましたけど、作者があんなキョーレツなバーさんとは知らなんだ)、彼女自身が老いとか痴呆とか癌とかに向かいあいつつ、それでも生きていく(まあ死なない限りはみな生きてくんですけどね、詰まるところは)というスタンスには他者の口出し無用、わたしゃ私でおっ死んでいくんだから気にすんなよというような、ある種諦念に満ちながらも豪放磊落な圧倒的な力強さがありました。
 
彼女が後半で書かれていた、
「どんな人もちょうどいい時に死ぬのだ。」というコトバは目からうろこでした。
誰の人生にも足りないなんてことはたしかにないのかもしれないな、そう思いました。
 
今、頭のなかを、自分でクルマの中で死を選んだ内科の先生とか、医者になって数年で昼間の官舎で首を吊った同級生とか、若いのに糖尿病が元で死んでいった歯科口腔外科の先生がよぎりました。彼らも足るを知るだったのかなあ。やっぱりわからないことだらけですかね、人生なんて。
 
だったら、今から思えば60代でなくなったうちのおふくろも、あれは彼女の人生のまっとうだったのかもしれないのかな。
彼女は病床の中で、「私にはなんの悔いもない」、と、何度も繰り返していましたが、あれは彼女のつよがりではなく本音だったのかもしれません。
その冬に開業する予定の息子の行く末を案ずるような弱音も言わなかったですもんね。
そのバカ息子も、まあええ歳こいて何とかやっていますけど、当然、来世も戒名も信じない息子は、自分の中で「生きている」母親を時々引っ張りだしては会話してるんですよね。でもそこで母がなにか自分に意見してくれるというのではなく、見えないそこに佇んでいる、母親の気配みたいなものを自分の中に取り込んで、また顔を上げるといった、そんな程度なんですけどね。