村上春樹「国境の南、太陽の西」を読んで、自分にとって積年の課題でもあった、石ノ森章太郎先生のオリジナル「人造人間キカイダー」に取り組むこととする。
オリジナル漫画は1972-74年、少年サンデーに連載された。
リアルタイムでも読んでいたはずだ。爆発的人気を誇った「仮面ライダー」に続く特撮作品としてTV放映もされた。あとに続く「イナズマン」やら「変身忍者嵐」なんてぇのもあったよね。
善をなす心と悪をなす心が混在しているのが人間なら、命令にしか従えずそれでいてアシモフの3原則に守られている機械人間(ロボット)とは、人間に奉仕するためだけに作られたものでしかないのか?そして機械が心を持つこととは一体何を意味をするのか。良心回路(ジェミニー)を持ちながら、プロフェッサー・ギルの笛にも惑わされる「人造人間キカイダー」は、結局幸せなのか不幸なのか、そのことについて考えることは、人間存在そのものの幸・不幸を考えることでもある。
でもね、じっくりゆっくり、オリジナルキカイダーを読んでると、何がなんだかわけわからなくなって、リメイク作品のMEIMUの「キカイダー02」もますます困惑の極みで、結局は、キカイダーという「人間になったピノキヲは果たして幸せだったでしょうか?」という主題よりも、平気で嘘をついたり他人を殺戮できたりする人間は果たして長生きしてこの地球で親分風ふかしてるけどじゃあほんとに幸せなのか?という演目に入れ替わってしまったのでした。
ちなみに、おれの脳みそにはいつもかすかにプロフェッサー・ギルの笛の音が通低音として鳴り響いているのだと思う。でもそれは普段は気にもとめない単なる軽い頭痛みたいなもので、眉をしかめてやり過ごすたぐいのものなんだ。だけどずっと蓄積されて、あるボーダーを超えると、通低音でもたまらなくなって、そんな時、そいつを振り切るためにアルコールを流し込み、ギルの笛を運良く掻き消すことができた時、おれは狂ったキカイダーになるのだ。まあ、さっきも書いたように何が正気で何が狂気かなんて誰にもわかりゃしないんだけどね。生きてるって幸せなことなのかい、このダンスを踊り続けることは楽しいかい、お前の愛する人がいつもお前の前で心をひらいてくれてるとでもいうのかい?そんなことわかんねえよ。おれはだって機械じかけの人間もどきだもん。ほんとかい?わかんねえな。いずれにしても人間と人間もどきの間に横たわってるものなんてほんの些細なことなんだろうし、おれはこうやってチェンジとアンチェンジの繰り返しの中の競争に己を置くしかないんだ。
*過去の自分のblogより引用(2013.7)
「サイボーグ・ブルース」その中で、ちょっと惹かれたのが、「死霊狩り」と「サイボーグ・ブルース」だった。 後者の方の、同僚の警官に撃たれて死んで、サイボーグ特捜官として再生したアーネスト・ ライトという黒人の物語の方を読んだ。 彼は生きながらにして死んだ男だ。生き残ってサイボーグ体に接続された大脳のほぼ1/3だけが残った自分なのだ。 人間時代につちかった感情は枯渇し、それでも時として蘇りかけた熱い涙はもちろん頬を伝うことなどな く、自分に温かい手を差し伸べたものはすべて押しつぶされる。 そのアニメでは描ききれなかったドグマを、この「サイボーグ・ブルース」という小説に託したのだ。 でも、結局、世の中から抹殺されてゾンビのように再生された男には、 心やすまる場所などこの世のどこにもない。 それは今の世の中でもしかり。だから、8マンは闇の中へ消えてゆくしかなかったのだろう。新しく作りなおされたノーラン監督のBATMANドラマ3部作、最終を飾る「ダークナイト・ライジング」(これはきちんと映画館まで足を運んだ数少ない映画だ!)の最期、 ・・でも、これはきっと死んでしまったバットマンの夢なんだと思う。 闇にしか生きる場所を見いだせなかったバットマンが、死んだあとに見ているここちの良い白日夢なんだ。 だから、みんな闇に宙吊りにされたまま戦い続けるしかないのだと思う。(こんな世界で生きながらえて)それでも死なない理由を誰しもが探している。