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だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#257 「私は、かくしておしっことおちんちんの医者になった」

何度もダメだと思っても、ヒトには立ち上がる勇気というものが残されている。

そんなことを久々に思った。

 

日常なんてそんなに毎日毎日120%で走り抜けるものでもない。アイドリングしてちょっと飛ばしてまた休んで、そんな感じだ。でも飛ばし続ける時もある。ま、それは仕事次第ってことでしょうから、社会人には皆共通のことなんだろう。

あと面白いというか救われるのは、いろんなことに制限時間があるってことだ。就労時間も一応は決まってるし、自分でいえば、外来の終了時間も一応決まっている。それからあとは残業だとか、相手を要しない事務作業とか、患者以外との係りの仕事だったりするから、これはもう他人様に助けていただけるものではない。まあ、一日だって24時間だってわかってるからいろんな諦めもつこうってものだ。だから終わることができるし区切りをつけることができる。そういうものだ。

ブラック企業の闇に入ったヒトからはきっとこの時間軸が消失してゆくんだろう。恐ろしい話だ。人間が人間でなくなることも洗脳と同様た易いのかもしれない。終わりがあるから、極論するのは死ぬ時がすべての終わりだとしても、頑張れるんだと思う。

 

なんか果てしないレースのさなかにいるような気が最近してたんだよね。そりゃいるのは事実なんだけど。ゴールのないレース。消耗したもんから脱落していって、そのヒトのいたあとはやがて痕跡もなくなって、他のみんなはそこに始めっから誰もいなかったかのように談笑している、そんな会場にいるような気がしてたんだ。

だからおれは消えないようにしんどくっても頑張らなくっちゃいけないんだってね。

それでもしんどくってしんどくってもう消えたくなる時だってある。こういうのはやばい兆候なんじゃないのかな?

 

で、最近は随分のろまになってるけど、もともとは几帳面な人間なので、請け負った外部委託の仕事は、締め切り前に早く済ませないと夜もおちおち眠れないといったタイプの人間なのである。

そんなわけで11月締め切りの医学原稿7000字(だったかな?)も早々に済ませてメールで送ったし、夏の久万医師会講演ののパワーポイント(結局マックのキーポイントには移行できなかったんだよね、みんなが使ってる基準のソフトがパワーポイントだってことで、その点ではマイクロソフトはまだ偉いのかなと思いました)も、少し前には仕上げた。それだって最近では集中力が続かないので、休みの日の日中に病院にこもったりして作っている。朝の3時から起きだしてやったこともあった。

手が抜けないのである。

 

今回、先輩から「倫理法人会」なるもので話せというオファーを頂いた。電話の内容では、泌尿器科の話で盛り上がってよ、ただし5分に1回は笑いを取りなさい、だって。そんなオファーでなに話したらいいのかわかるわけないじゃん。どうも会長に話しを伺うと、聴いている人は話しの中からなんらかの「気づき」を汲み取りたい様子だし、それが「頻尿」の話に内包されているのかというと疑問だし、それだからといって市民公開講座セミナーみたいにやるのもねえ、なんせ朝の6:30からだす、というわけで、その内容だけがずっと心に引っかかっていた。そして後回しにされていた。もちろん引っかかってるからいろいろ考えるわけである。それを断片的にメモにして持ち歩いたりもした。まとまらない。時間だけが迫ってくる。やばい。タイトルだけでもくださいという話になった。悩んで「私は、かくしておしっことおちんちんの医者になった」という演題で送った。そしてその演題が自分の言わんということを表現しているのかもしれないということにある日ふと気づいた。

 

そして、2015年10月11日の日曜日、午前中の透析患者さんたちとの「栄養キャラバン隊」が終わってから、病院にこもって、Evernoteを用いて、6時間弱かかって原稿を書き続けた。それはパワーポイントの説明的補足ではなく、ホントの「読む」原稿に変貌していった。そしてそれは、思いがけず、今まで自分が「武智ひ尿器科・内科」の医師としてこの場所にいるまでの変遷を綴った文章となってしまった。コトバはいくらでも溢れてきた。おれはあの時こんなことを考えたよなあ、いやこんなこともあったよなあ。それは自分が思いつつも表出しなかった、いや出来なかった思いだったのかもしれない。それをどんどん文章として吐き出して、結局、きりをつけたところが原稿用紙30枚分に膨れ上がった。そこまでが開業したばっかりくらいのところの時間軸で、それから先は力尽きてしまったのだけれど。その話は、もしかしたら他の人にはどうでもいい話なのかもしれない。だけど、自分がここに「おちんちんの医者」でいることに至る物語が、自分の目の前に存在していたのである。それは自分の中の鉱脈を掘り当てたのかもしれないという錯覚さえ抱かせてくれた。

 

だから、一番の「気づき」は、今のところ自分にもたらされたのであった。

そうか、おれは今までも、そしてこれからも、「おちんちんの医者」が象徴するなにか(たぶん自我とか自分ってことかな?)としてここで生きていっていいのだ、と。

それだけでalright,OKでしょ?とりあえずはね。