だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#371 かつてそこに彼がいて、そんでいなくなったカウンターで。

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人間は一人では行きていけない。集団で社会を形成して、労働という貢物を社会にして、その報酬で生きて食わせてもらっている。このちっぽけな分際である自分も、他人様を雇って、一応病院なんぞを経営して、そこで誰かに給与も支払って、自分も法人から給与を受け取っている。その円環から抜けれそうにもないよなあ。それが生きて喰ってくってことなんだ。
でも、そういう社会性とは別に、ひとりで生きてるような錯覚にとらわれるときもある。そう錯覚するのはどんなときだろうと問うてみる。朝起きて、二日酔いの頭を振り絞って病院にやってきて、スタッフに挨拶をして、仕事を始め、患者さんと喋る、時には処置もする。その仕事をしている自分は実はホントの自分ではなく、その自分を天井から眺めているもう一人がいる。すべての営為が終わったら、この衣を脱ぎ捨てて、この世界からおさらばする、それまでの仮の時間をここでは「人生」と呼ぶのだ。その人生という時間も、何十年だかあってそれはそれでずいぶん長い時間になったもんだけど、それでももしかしたら一瞬なのかもしれない。何に比べて一瞬なのかわからないくせにそう思ったりする。すべてが仮なのだ。
一体全体そういった感覚はどこからくるんだろうね。わからん。そしてそういった感覚に包まれてる時には、なんだか、全てが曖昧模糊になってくる。混沌の中ではいい悪いも善悪もなくなる。やる気が無くなるとかそういうんじゃなくって、どういうんだろうね、全てが白茶けてしまうんだ。それは決して悪い感覚でないのだけれど。なんてゆうのかなあ、ひとりで生まれてひとりで死ぬんだけど、誰かに取り上げられたりしてこの世に出てきたこととか、きっと誰かさんにたくさん迷惑をかけて死ぬまで生きてくんだろうなあという現実をかんがみると、ひとりじゃないのにやっぱり「ひとり」って思うんだよなあ。
この世からいなくなった人のことを思い出しながら、昨日もカウンターでとびっきりの自然派ワインを二杯いただいたんだけど、それでもやっぱりBinちゃんの料理をもう食べられないことには変わりはなくって、そういえば死んだおふくろの料理のことをたまに思い出すこともついでに思い出す。ガキの頃、風邪引いたりして寝込んでる時には、おふくろは無理なリクエストを聞いてくれたなあとか、あのでっかい卵で作るスコッチエッグは忘れられんなあとか、鶏もも肉とマッシュルームのトマトソース煮はなんだか臭くって喰ってる時には旨いのに匂いだけが鼻についたよなあとか、そんな感じだ。Binちゃんの伊予美人の揚げ物はホント繊細で優しい味だった。Binちゃんの笑顔みたいにね。
何が書きたいのかもうわかんなくなってきてるけど、ひとがひとりいなくなった重みは、そう簡単に消え去るものでもなく、だから自分の人生がどうこう変わるわけでもないんだけど、彼がそこにいた、という記憶を、しばらくあそこここで味わいながら、それがいつしか空気に溶け込んでしまうまでは、是認していこうと思うんだよ。レッツBinちゃん。
ビートルズはlet it beあるがままにとうたった。あるがままに水は流れゆき、淀んで、消えてゆく。あるがままに、息をして、息を呑んで、息をやめる。あるがままに、姿は消えて、衣を脱ぎ捨てて、還ってゆく。あるがままに、あるがままに。だからレッツBinちゃん。今日の終わりに。