だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#390 Talk about…2017/08/06 VOL.10. 「愛」ってたしかに因果応報なのかもしらんけど、

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因果応報なんて言葉があります。
 
親の因果が子に報いぃベベベン♪なんてていう風に、あんまり良い表現の方向では使われない感じがします。
そういえば2017/08/05(松前)の花火大会でもお化け屋敷もやってたけど、それこそ先祖の祟りで蛇女になったりした奴がいたりして、因果応報なんて煽り文句でアナウンスされたりするわけです(いまどきそんなレトロなんはないかも^^;)。
悪いことしてたら、来世で罰が当たるよとか、お天道様はちゃんとみてるよ、とか。まあ今ではそんな儒教的説教も通じんけどなあ(汗)
 
一方では「愛」とかいうのは崇高な言葉として使われがちだけど(それも今はちょっと地に落ちてるかんじがするのは、愛とセックスとが混同されてるせいなんだとは思うんだけど、愛のないセックスは確かにあるもんなあ、なんぼでも。でも愛とセックスはもう別で考えてもいいんじゃないかって、性病の患者さん診てたら、彼らをかばうんじゃないけど思ったりもするのだけど、これって職業病なんかなあ?)、愛が終わってしまって、例えば憎しみだとか不倫だとか離婚だとか死別だとか、なんかそういう形に終わってしまったら、はじまったときの「愛」はなくなってしまうんだろうか?
ネガティブな形に終結してしまった愛はそれこそ因果応報なんだろうか?
それらを始めっから存在しなかったことにできちゃうのかな?
 
なんてことも思ったりするわけです。
 
もう何年も前から断捨離をゆっくり進めているけど、捨てられないものはいくらでもある。
棚の中から古いビデオテープを引っ張り出してきて、故・サムシェパード氏の「ボイジャー」(1991)という映画を見た。
この映画も日本では dvd が発売されてないぐらいなので、きっと埋もれていくようなものなのだろう。
 
だから、筋書きみたいなことを言ってごめんなさいだけど、これは1957年とかそのあたりの時代のドラマだ。
サムシェパード演じる世界を股にかけるフェイバーという技師と、好奇心旺盛で知的でキュートな女子大生のジュリー・デルピーが、パリへの航海の客船上で知り合い、お互いに惹かれてゆく。
二人の愛は素晴らしい。そしてその愛にはやっぱり嘘偽りはない。
・・でも愛の帰結が、結局禁断のものであり、そうなってしまうと、愛していても二人はもう肉体として繋がることができない。
愛しているがゆえにというジレンマから、ふたりは繋がっているのに離れていく。
そして、そういったドラマにはやはり最後で悲劇が訪れる。
愛した女の子が、自分を捨てた(実は自分のほうが精神的に彼女を捨てたんだという残酷な事実も彼女から突きつけられる)女の娘だったという事実。
その事実と、女の子は死んで失われてもうこの腕には抱けないのだ、という事実。
それを引きずりながら生きていかなければならないのは、やはり因果応報といっていいのだろうか?
 
生きてゆくことはいつだってたしかに哀しすぎる。
 
で、自分のこと。
これから先、この自分にだってまたふたたび誰かを狂おしく愛する日が来るのかもしれない。
いやホント可能性はゼロとはいえんからねえ。
そう感じた時、もしその思いに蓋をしなければならないのだとしたら、それが正しいのか間違いかなんて、
そんな今更なことを書く気は毛頭ない。
 
だけど、だけど。
 
社会性という枠の中で、なんか芸能人は協奏曲のように不倫だの離婚だのという、生々しいドラマを演じている。
まあマスコミに踊らされて、自分たちも踊って、それでみんな納得してるだけのことなんだけど。
 
じゃあ社会性とかそういったハコみたいなものが取っ払われたとしたら、誰かを愛してもいいのかな?
娘と知っていて愛したのじゃなくって、結果として愛した女が娘だったら、それは許されるのか?
誰も傷つけなければ不倫は許されるのか?
サム・シェパードは赦されるのか、そして赦されるとしたら誰によって赦しは訪れるのか?
もとの妻か、自分自身か、死んだ娘(ジュリー・デルピー)か、神か?
 
わかんないよね、そんなこと。
 
で、再び自分のことであります。
おれは自分がとっくに赦されない人間だと知った。知っている。
地獄があるとしたら、死後、その業火に焼かれて当然だと思っている。でもそれだからといって現世を諦めるものではない。そのことだけは誓おう。
 
いろいろ書いても堂々巡りだ。
いつだって言葉は足りないんだ。
そして答えなどあったためしがない。
 
新聞のインタビューで読んだ、
天才写真家のアラーキーの以下の言葉は、
そういった問いに対する答えの一つかもしれないと思ったので引用しときます。
 
「陽子(40代でなくなったアラーキーの奥さん)亡き後、すべての女性が恋人になった」
そして、アラーキー前立腺がんになっても、碧眼になっても、生きとし生けるものを、森羅万象を「ヌード」として撮影しているんだ。
「心を裸にすることをヌードというのだよ」愛媛新聞2017/08/03)
 
「写真は真実でも現実でもなく、切実なんだ」
写真は、自分や他人を見続けるセンチメンタルなこと。結婚すること、生きること、その「時」が写っちゃう。カメラがセンチメンタルなんだな。もともと寂しがり屋なのに、カメラ持つから切実なことになる。朝日新聞2017/08/11)
 
・・だって!!
こんな素敵な言葉がスルスル出てくるんだからねえ。凄いです、師匠。