2018/12/20
映画の中で、
「作品だけではなくフジタという名前も知ってもらわないと意味がないので、
僕は「フーフー(お調子者)」という名前で呼ばれて全然OKですよ」
みたいなことを、藤田役のオダギリジョーさんが言われていた。
ここからは私事、
確かに、絵は何かを訴え、それにタイトルが付くとまた別の意味を持ってくる。
しかし、そこに「描いた人」の顔がハマることも、ある意味では「良」である意味では「不可」だったりする。
でも、自分も絵を描くものの端くれとして、
「絵」を描いた「自分」も含めての絵だとやはり心の何処かで思っているので、自分を「求めて」ほしいなあなどと、下賤な考えを抱いたりする。
日本に帰ってきた藤田は、大東亜戦争の真っ只中、
陸軍の命を受けて、戦争画を描く。
「アッツ島玉砕」のあの暗く逼迫したタッチ。
あれが初期の「乳白色」の裸婦を描いたFOUJITAとホントに同一人物なのか?
映画は疎開先の農村で終わる。戦争はまだ終わってない。
その後、逃げるように日本を去って、やがては日本国籍を捨てるようになるとは、本人も知らぬことだったろう。
80歳で藤田が自分で録音したテープを「youtube」で聴くことができる。
彼は、とにかく、いろんなものを通過しながら、描き続けた。
裸婦が、道化師が、狂騒が、少女が、戦争が、信仰が、キリストが、
しかしそれらは主役では決してないのだと思う。
やはり主役は「FOUJITA」なのだ。
以上感想にもならぬ感想を。
その後で、「ゴーギャン」の映画も観た。