だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#494 TAIPEI 2019/04/27-30 ③ 帰ってきて、何も知らなかったことにびっくりする「悲情城市」という映画を家族でみる。 

悲情城市 [DVD]

 
台湾のこと何もわからないまま、調べぬまま、台湾に行った。
 
台湾でいろんな観光もした。
衛兵の交代とか、中正記念堂とか、「千と千尋」の風景という九份にも行った。
慌ただしくも故宮博物館も行った。我々だけで、台北101にも登った。
蒋介石を讃えた「中正記念堂」で、現地ガイドの呉さんは、「蒋介石の偉業に関しても諸論あります」とやや口を濁した。若い人では彼のことをもう知らない人もいっぱいいます、と。
 
帰ってきての昨日の夜、家族みんなで、台湾を世界に知らしめたと言われる映画「悲情城市」(1989)を見た。
数十年の長きに渡って敷かれた戒厳令がとかれた1987年から数年で、この映画は制作された。
戒厳令下では、人々の口には重しが乗っかっていた。その後、台湾の民主化が一気に進んだという。
その、重く封印されていた2・28事件赤狩り?)のあたりを背景にした映画が、前述した「悲情城市」だ。
 
以下は、Wikipediaよりの引用
 

白色テロ時代[編集]

白色テロ時代」という語は広義には1947年の二・二八事件から1987年に戒厳令が解除されるまでの期間を指す[4]。台湾では二・二八事件以降、中国国民党(国民党)により国民は相互監視と密告が強制され、反政府勢力のあぶり出しと弾圧が徹底的に行われた。白色テロの期間、蒋介石率いる国民党に対して実際に反抗するか若しくはそのおそれがあると認められた140,000名程度が投獄され、うち3,000名から4,000名が処刑されたとされる[5][6]。大半の起訴は1950年から1952年の間に行われた。訴追された者のほとんどは中国共産党のスパイを意味する「匪諜中国語版」のレッテルを貼られ罰せられた。
国民党支配に反抗したり共産主義に共鳴したりすることを恐れ、国民党は主に台湾の知識人や社会的エリートを収監した[5]。例えば、 台湾再解放連盟は1947年に設立された台湾独立運動の組織であるが、国民党はこれを共産主義者の統制下にあるとして、その構成員を1950年に拘束した。台湾独立建国連盟は同様の理由で政府により迫害された。しかしながら、このような明白な理由付けはなされない政治的迫害もあった。1968年には柏楊ポパイの漫画の翻訳における言葉の選び方を理由に収監された。 白色テロの犠牲者には外省人も多数含まれる。外省人の多くが国民党のおかげで台湾に避難することができたのだが、同伴者を伴わずに台湾に到着すると、現地の台湾人と比べていいように使い捨てられることがしばしばあった。柏楊李敖のように白色テロを生き延びた外省人の多くは民主化運動や国民党改革を推進するようになっていった。1969年に後に台湾総統となる李登輝は、「共産主義運動」に参加したとされ、台湾省警備総司令部中国語版により1週間以上も留置され尋問を受け、「お前を殺すことは蟻を踏み潰すくらい簡単だ。」と言われたという[7]

戒厳令解除後[編集]

1987年の戒厳令解除とともに二・二八事件白色テロの話題に触れることを人々は次第に恐れなくなっていった。1995年には李登輝総統による謝罪がなされ、犠牲者やその遺族に対して補償をするための二二八事件記念基金会が設立された。2008年には台北馬英九総統により白色テロの犠牲者追悼式が行われた。馬は犠牲者とその遺族に対して政府を代表して謝罪し、台湾が同様の悲劇を二度と経験することがないように望むと表明した[8][9]
 

 

 
われわれは隣国なのに何も知らない。
 
日本だって戦後アメリカの支配を受けて、朝鮮戦争とかを経て、経済成長があって、オリンピックやら万博やらがあって、奇跡的な経済成長を遂げて、今の日本になった。
 
日本人は、天皇陛下玉音放送も、今はテレビのドラマで聞いてなんとなく日常の風景として捉えているだろうけど(自分もそうだ)、あの時は国はほんとにボロボロだったんだと思う。そしてアメリカによる強制的な価値観の転換を強いられたのだろう。
 
江戸時代が終わって明治になり、近代化が進み、日本人のアイデンティティーが士農工商から随分変わって、それこそ森鴎外が「舞姫」に描いたような世界も出てきたときの苦悩。夏目漱石の苦悩。
その時も大変だったろうけど、1945年の敗戦後も大変だったろう。
そしてそんな大変は、「台湾」にもあったんだ。
 
昭和35年生まれの自分はまさに高度成長期とともに生きてきたんだろう。
そし今こんな時代になるなんて誰に想像できた?鉄腕アトムに描かれた時代に近いものだってたくさんあるじゃないか。
 
・・なんて老人の繰り言みたいなことを言ってみたりするけど、
だからどうだとじゃ言いたいのではない。
 
ただ、外国に行って、いや台湾に行ってよかった。
いろんな価値観があることがわかっただけでもね。
まあ、自分の国のことだってろくすっぽわかっちゃないんだよね。
そしてそれはどこの国でも一緒なんだろう。だから争いは決して無くなることはないということも。
 
だから、
おれは、死んじゃいないけど、また生きようと思うんだ。謝謝。