夢枕獏氏が「キマイラ・吼」シリーズを書き続けているうちに、自分の作り上げた登場人物である「岩村賢治」氏が書いた詩を集めて詩集にしたという体裁でリリースしたのがこの本だ。
フィクションの中の人物が書いた詩なんて形をとれるのが夢枕獏氏のすごいところだと思う。
(ところで「キマイラ」シリーズの新作もなんか書かれ始めたようではあるのだが、きっちり着地点までたどり着けるのだろうか?
自分自身が一体どこまで読み進んだのかも忘れているロクでない読者なので、偉そうなことは言えた義理ではないのだけれど・・)
その序文で、谷川俊太郎氏がこんなふうに書かれていた。
「人は才能によって詩人になるのではない、知性によってなるのでもない、運命によって詩人になるのだ」と。
この歳になって自分が詩人ではないことを莫迦じゃない限りは普通は誰だって思い知らされるわけだが、まあそういうあたりまえのことだったのである。
それでもやたら焦るのはやっぱり莫迦ってことなんだろうか?
そのことに気づけないでいる自分を認めない自分が「詩」から一番遠いところにいるのだということ、
それを実は気づいているのに知らん振りを決め込んでいることが、とっても哀しいのだよ。
そうだよ、おれは自分の中にある(そう信じている)「詩」を、
おれさまをさかさにぶら下げてシェイクして、できるもんならエクトプラズマみたいに吐き出させてみたかったのです。
もう一度ね。
なのに、おれの中はまさにからっぽしか住んでいそうになくって、
そんな本の中、「女郎花」という一編からの引用を。
ーーーあなたは誰ですか?初めて会ったひとのようにそう訊ねてみればそのひとは答えてくれるだろうかーーーあなたは誰ですかーーーわたしはもうあなたが忘れてしまったかなしみです
昨日、酔っ払って15年前の開業したばかりの38歳の自分に会って「あんたはなにものなんだい?どうなりたいんだい?」そう尋ねてみた。
奴がなんと答えたのかは忘れたけど、
二日酔いの抜け切らない夜の始まりに、
おれはまた搾り滓のチンケな心を従えて、
それでも、かけらでも残ってるかもしれないおれの「詩」を探そうと思ったんだよ。