だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#142 「飛行士と東京の雨の森」の2回めを読んでます。

 自分に近しい作家というのはなかなか見つからないものだ。

 
素敵な女の子と会って、恋人になっても、いつしか熱が冷めてしまうことだってある。
だって、彼女は必ずしもであった時の彼女ではないだろうし、自分だって付き合い始めた頃の自分ではない。
だから、ゆえあって一緒になっても、別れた人たちのことを、なにか言える資格なんて自分にはない。
 
そんな風に、寄り添っていた作家たちも自分にだって少なからずいた。
ウルフガイ」の平井和正、「テニスボーイの憂鬱」の村上龍、「さよならの挨拶を」の山川健一、「ダンス・ダンス・ダンス」の村上春樹丸山健二池澤夏樹開高健
だけど巡りあうことは、歳とともにめっきり減ってしまった。
そして世の中には昔よりさらに数多の書籍が溢れており、それらと付き合うすべなどもう自分にはないと思っていた。
 
だけど、なんとなく巡りあうことだってある。
 
この西崎憲という、パーソナリティのよくわからない作家に、自分は巡りあい、「飛行士と東京の雨の森」という本を手にとった。
新聞の書評で読んでなんとなく気になって、ジュンク堂で、実物を見て何回か手にとった。
そして結局はAmazonで購入したのだった。
心の中にすーっと一言一言が入ってくるような小説集で、こんな感触は久しぶりだった。
 
例えば昔、村上春樹氏の小説を読んだ時に感じた、ああこれは自分のために書かれた小説なんだというような感慨、
それが不変になるところに、ムラカミハルキ氏がワールドワイドな理由があるんだろうけど、
今は逆に春樹さんは世界を収斂させていってるように感じるときもある(良い読者ではないので戯言と思ってください^^;)。
 
先日、久々の映画館で見た「リスボンに誘われて」という映画、
語学教師の主人公は一冊のポルトガル語の本とそれを落とした若い女性の切符に惹かれて、全てを捨ててリスボン行きの夜行列車に飛び乗り、
その世界に100部しかない本を書いた男の人生を追いかけつつ、自分の人生をなぞり直そうと思うのだった。
まさに、その本には彼の日頃考えていたようなことがjustで記されていたんだと思う。
その映画に自分が惹かれたのも、偶然を超えた何かであるような気がしたりもした。
たった7人の観客の映画館で。
 
そんな感覚に、めまいのようなデジャブ感を感じながら、読み進めていったのだった。
 
彼の文章は、エキセントリックではなく、静謐な感じで、ただただ岩にしみ入る蝉の声のようにじわっと入ってくる。
 
この本を書かれた西崎憲さんという方はメインが翻訳業の方なんだけど、よく考えると、家の本棚にあって積ん読歴の長い「ヘミングウェイ短編集」の訳をされていた方だった。
奇遇だ。でもこういう奇跡のようなことって人生においては往々にして起こるものなんだね。
そんな風にしてこの本を一度読んだあと、彼の訳したヘミングウェイの短篇集を読んだ。
そして、ふたたび、1ページ1ページを愛おしむように、2回めの読書をはじめたところだ。
さりげないコトバで構築された物語の、どこが、自分にjustbeatなのかよくわからない。
でも彼の文章は、心の片隅にさりげなく根を下ろして、主張するわけでもなく消えてしまうわけでもなく、はじめからそこにあったかのごとく存在しているのだ。
 
言葉にできなくっても、大切でとっておきたいものを、一つ一つ抱きしめてゆく、そんな生き方がしたいと思った。
 
二人の作る音楽はハードではなかったけれど、柔らかいだけのものではなかった。その逆だった。激しくもなく音も大きくなかったけれど、それはほかの音で掻き消すことのできないものだった。そしてそれは自分が掻き消されない音であると同時に、ほかの音を掻き消さない音であるような気もした。そういうものがソフトロックなのだろうか。帰りの電車の中でイケはそんなことを考えた。(「ソフトロック熱」より)
 
世界がこわいか、こわくないか、それはわたしには分からない。ただ、この瞬間がそう悪くないものであるのは確かなことに思えた。わたしは未来を見て怯えるべきだろうか。過去を見て震えるべきだろうか。いや、なぜわざわざそんなことをする必要があるのだろう。人間のなかには良い物もあれば悪いものもある。それが常態なのは明らかだ。だが、その常態に対する反応はさまざまだ。死を選ぶものもいれば、生き続けるものもいる。結局それは是非の問題ではないのかもしれない。(「理想的な月の写真」より)
 


映画『リスボンに誘われて』予告編 - YouTube

 

飛行士と東京の雨の森

飛行士と東京の雨の森