だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#146 風邪を引きましたよ③

風邪の方は、声を出していないと調子がいい。
 
今日もバイトの先生が午後から来てくれたので、家に帰って沈黙の世界に生きている。
そうそう、犬とは話したけどね。
 
そんなこんなで思い起こしてみると、やはり自分の慰みというのは読書であったのだと思う。
音楽でもなくAV(アダルトじゃない方だよ!)でもなく、やはり我々昭和30年代世代は活字というものに満たされて生きてきたのだ。
 
10年前に買って、最近、本棚の前面に出してたんで、ずっと読みたい読みたいと思っていた本を、たぶん三度目なんだけど読んでみた。
ノンフィクション・ライター吉岡忍さんの「路上のおとぎ話」というエッセイ集だ。
病気で、家にいる時間というのももしかしたらいいものであったのかもしれない。
彼は全世界を旅して歩いて、例の日光ジャンボ・ジェット機御巣鷹山墜落や、少女殺しの宮崎や、酒鬼薔薇聖斗の本などを書かれた方だ。
今も、時々新聞のコメント欄でその姿を見ることがある。
 
自分の中にも、なんでもないのになぜか残っていて、それこそなんでもない時にフッと思い出される空気とか風景がある。
それは妙に懐かしく、郷愁を誘う。
彼はそんなものについて冒頭でこう書いている。
”一つ一つは断片的でとりとめもないけれども、そのあいまいな全体が私自身を作り、動かし、目の前の差し当たっての事象を眺めさせている、と。”
そんなものを無意識下に積み重ねて人生の空隙を補完させて、リアルワールドに表出されている以外の自分も含めた「自分自身」の人生を作り上げていくしないのかもしれない。
我々は、いろいろ理詰めやら、ルールで自分を締めあげて、それで「人間形成」なんて努力を怠らないでいるけれど、実はそういった物には大きな風穴が空いており、それを埋めるすべなんて実は現実世界にはありゃしないのだ。
それをうすうす気づきながらも、この世知辛い現世で、自分を作り上げてゆく。一生懸命作り上げてきた。
 
それはそれで悪いことではない。
 
でも、こんな風に画一化されたり、情報過多の時代において、個人が「個人」として生きていくことにどんな意味を見出すことができるんだろうってやっぱり今も思ってる。
こうやってブログを書くことについても然りだ。意味なんてあるんだろうかってね。マスターベーションとも揶揄された。でもこうやって個人の息遣いとしての投稿を続けることが、もしかしたらより一層世界とつながる唯一の手段ことなのかもしれないというふうに思う夜だってある。だから続けることができるのだろうか?
 
しちめんどくさいな。まさにそのとおり。しちめんどくさい。
それでも続ける、息をし続けるように。たまには事切れても。多分。今まで続けたことはきっと続いてゆけるだろう。
 
この本の中の、「森の通信兵ーホーチミン」という一編から引用する。
 
『詩や小説を書くという仕事は、ジャングルでケーブルを守った仕事とよく似ている。
物書きも通信兵もだれにも知られず、ひそかに、たった一人で任務を遂行する。
しかし、一人でやっているように見える仕事は、どこか遠くで、たくさんの人々とつながっている。
そう信じることだけが日々の支えとなるんだ』
 
そう、元ゲリラ兵のベトナム詩人は、吉岡さんに自分がとってきた亀を料理してくれ、別れ際に語ったという。(吉岡忍『まるでおとぎ話のように』より1997)
 
(実は以前も引用して、その時もおんなじようなことを語っているんだけど、人間ってえのはそうそう成長するものでもないということがよくわかる。)