だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#152 『飛行士と東京の雨の森』again

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鳴子渓谷(仙台)の遊歩道は震災以来立入禁止で、我々は、大回りの道をひたすら歩いたのだった。2014.11.2)

遠方の場所を想うということは特別なことだ。
遠方の地というものは詩性に似たものが漂ってはいる。
たとえば町の雑踏の中でどこか遠い地を想う時、その人物は灯台のようなものに変じているのではあるまいか。(p95)
 雨の降る肌寒い日、またまた西崎憲さんの本から、『飛行士と東京の森』という、短篇集の表題にもなっている一編を再び読む。
 
どこへいくこと、遠くに憧れるということ、それは実行すること、ウェールズと日本という離れた地点が何か奇跡のようなラインでつながること、そんな色んなモノがさり気なく配列されながら、このそぼ降る雨のように彼方の景色の中に消えてゆく、ただ存在感だけがたゆたっているというような、そんな絶妙な短編だった。
 
そして、ぼくも遠くを想うことが多くなった。
自分の知らない土地に何かがあるとはことさら想うわけではない。
ただその場で、空気や大気を感じ、風を感じていたいと想うのだ。
 
その想いって、でも本質はなんなんだろう?
 
確かに、ヒトがある場所を離れて違う場所に行くことについては、何らかの理由があるはずだ。
そしてヒトが頭の中で思い描くとき、その遥か彼方の地域というのはいったいどういう意味を持つのだろう。
今、自分が住んでいるこの四国の土地だって、東京から見たらfar awayだろう。
お遍路さんが道を歩いてて、お接待の土地でヒトはやさしく、気候は温暖で魚も旨い、すぐ近くに山も海もあり、しまなみはサイクリストの聖地になろうとしている、物価も安いし、ああいい土地だなあ・・なんて感じだろうか。
ああ、行ってみたいね、そんな天国みたいな場所へ。
 
どこか遠くに憧れるという感情はほぼどの人間にも内包されたものなんだろう。
人生という旅の中で、自分がどこか違う土地に行ければ違う人間になれるのかもしれないなあとと、誰だって何度かは思い描いたことだろう。
そうじゃなくっても、この土地のこのベッドの闇の中で、もしも、もしも、の問いを、何度繰り返したろう。
でも自分自身から逃げる事はそう簡単ではない。
だから、観光でお茶を濁すわけでもないだろうけど。
 
知らない土地で異邦人になっている自分を感じて、その感覚こそが裸の自分であり、本質であるのだと思い直すことも、もしかしたら旅の中でのふっとした時間では可能なのかもしれない
もしくは、異邦人として訪れても、ナニも変わらない変われない自分を見つめて、現実をしゃあないなと認識する力も、逆に旅はくれるかもしれない。
 
作者はこう締めくくる。
 
けれど、遠方とはそもそも何だろう。どこかから見たらここも遠方ではないのだろうか。そしてここはまた遠方の中間地点ではないか。
はたして遠方に行けば淋しさは減るのだろうか。(p113)
 
 
みんないつかは遠い空の風のなかで、凧のように舞い上がって、空の蒼に消えてゆく。
だからその日までは。
 
 
 
【P.S.】本筋とは関係ないけど、面白い一節があったので引用しておく。そうやって本は増えてくんだよね。
 

家には読んだ本より読んでいない本の方が多い。そういえば、どうして読まない本を買うのか、一冊読み終えたら次の買えばいいじゃないかと、昔の恋人に言われたことがあった。もちろんそういうものではない。うまく説明できる気がしないが、確かにそういうものではないのだ。(p92)

#142 「飛行士と東京の雨の森」の2回めを読んでます。 - after 3.15,ulala says;

 

飛行士と東京の雨の森

飛行士と東京の雨の森