イッセー尾形も、宮沢りえさんも実にいい。ほぼ原作に忠実になぞられた映画だった。endingは少しだけ違ってたけど・・。
村上春樹の孤独感については先日書いたが、
実はこの物語は、孤独感というよりも、
いつもなんだかしっくり来ないまま共存している「生」に対する違和感に関する物語なのかもしれないなあと思ったりもする。
だから、最愛の彼女の死の欠落もトニー滝谷は受け入れざる負えないし、
父親の弾く古き良きでも時代遅れのトロンボーンに関しても、異を感じながらもそれを唱えることはない。
「欠落」はいつか馴染むことができるかもしれないが、「違和感」はいつも隣にあり、それは不協和音を奏でようが、静かな痛みでしかなかろうが、決して消え去ることはないのだ。
そう書いてはみたものの、果たしてそうなんだろうか?
「欠落」も「違和感」もこの人生につきもののこいつらを我々は結局飼いならすことなどできないのだ。
その音楽はトニー滝谷が記憶しているかつての父親の音楽とは少し違っているように感じられたのだ。もちろんそれはずっと昔の話だし、それに所詮子供の耳だった。でも彼にはその違いが重要な事であるように思えた。ほんの僅かな違いかもしれない。でもそれは大事なことなのだ。彼はステージに上がっていって父親の腕を掴み、いったい何が違うんだい、お父さん、と問いかけてみたかった。でももちろんそんなことはしなかった。 彼は何も言わずに、水割りを飲みながら、父親のステージをずっと最後まで聴いた。そして妻と一緒に拍手をして家に帰った。
(「トニー滝谷」より)