Rumbling Days 3 2015/05/14
ベロベロになって、ふとしゃべっていて、ヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」という映画が出てきた。
1984年の映画だった。パリの話ではなく、アメリカのテキサス州の「パリ」の物語だ。
男は失踪した女を探しあてて、ついに会いにゆく。
マジックミラー越しののぞき部屋の娼婦になった女を見て、彼は「どの女の子もきみなんだ」と語る・・というふうに記憶してた。だからそう喋った。
そう思っていたので、疑いもなかったので、目の前の彼女にはなんていうのかなそんなニュアンスで喋ったんだけど、
帰って調べてみたら、全然違ってた。
女の人のほうが、
「この店だと(電話越しにこちらからは相手の男のことが見えない。その男の前で、卑猥な話をして卑猥なポーズを取るときに・・)、あなたの声が聞ける。どの男の声も、あなたなの」と彼に語りかけるのだった。
まったく記憶が逆になってました。
最近実は、身の回りのカップルが離婚された話を聞いた。離婚っていうのは昨今では決して珍しいものでもないのもわかるんだ。だけど、その話を聞いて、なんかまた心の中になにか見えない杭みたいなものが打ち込まれた気分がした。それはどうしてなんだろう、他人の話なのにねえとか思い、よくよく考えるに、実ははじめから自分の中にもある種の欠落があって、いままでそいつを見ようとしてなかっただけなのが、家族という2ピースとか3ピースになって明らかになっただけなのかもしれず、その可能性は誰しもが持ってるものなのかもしれないなあなんて思ったりもしたのだった。
でもね、だからって最初好きになった気持ちを否定するものでも何でもない。ヒトがヒトを好きになるということは、かくも愛おしくものくるほしいのだ、っていうことなんだけどね。ただ好きになっただけでは終われないものが、家族にはあり、その家族という最小単位を維持していくことがいかに困難かってことが・・つまる話は、こうやってうんちく並べながらもオイラはわかってないってことなんですけどね。
まあ、酔ったおれの話なんて誰もわかりはしないだろうけどね、
閑話休題。
いっつもお酒を飲んでいるとこの奇跡のような空間が永遠に続けばいいのにって思うことが、一瞬だけど訪れるんだ。そしてそれはいつの間にか、霧が晴れるみたいに消えていっちまって、あとに残るのは胸焼けと頭痛と後悔なんだけど。