#221 冬の花火(「美しい時間」小池真理子・村上龍)
小池真理子さんと村上龍氏が56歳の時、ネスレのコーヒーのキャンペンで「美しい時間」と題し、それぞれが50代の男女の物語を書いた本を再読しました。
まあそれなりに長い時間を生きてくると、いろんな嫌な思い出もいつの間にか発酵するのかどうか「美しい時間」に変わっているから不思議なものですよね。
これを老化ととるのか成長ととるのか、人間の叡智ととるのか、そのへんは個人の資質によっても変わってくるものでしょうけどね。
いろんなヒトに傷つけられて、いろんな人を裏切って、いろんな人の世話になって、いくつかのターニングポイントがあって、そしてちょっとの自分の努力もあって、今の自分がいる。それを奇蹟と呼んでもいいと思うこともあり、当然の結果と驕ったりする夜もある。まあ、そうやって、大きな進歩もないままに人生は続いていくわけです。
どうして、この本を思い出したのかというと、もうすぐ村上龍氏の「オールド・テロリスト」という新刊がリリースされるらしく、なんとなく龍氏のことを思っていたら彼の各恋愛小説が読みたくなった次第だったのです。最近読んだ中では、親知らずを抜いた苦痛にのたうちまわりながら読み続けた「心はあなたのもとに」が印象深いわけですけど、あの小説の量は半端ないからね。それでふと思い出して、この文庫本を探しだしたんだよ。
小池真理子さんの方は「時の銀河」といういわゆる不倫の話。
人生の先は見えている。そういう年代だ。もうあと少し。向かっている方向も、その終わり方も、なんとなく想像がつき始めるころなのかもしれない。
なのには私には今もまだ、すべては霧の向こう側にある。いい年をして、ちっとも達観していない。しそうにもない。
達観できないまま、かつての恋人の妻と食事に行ったり、一緒にぼんやりと酒を飲んだり、小娘のような感傷に浸ったりして生きている。どちらが彼の妻だったのか、今となってはもうわからない。どっちでも同じだったような気もする。
ただわかるのは人生はもうしばらくは続いていきそうだということ。おれだってくたばる前の自分をうすらぼんやり想像してみることだってある。でもすぐに靄がかかってなんにもみえなくなってしまう。死んでいったヒトがそれでいいんだよ、おれもなんもわからんもん、といってくれる夜もあるし、彼らの歯ぎしりが聴こえる夜もある。
村上龍氏の方は「冬の花火」というタイトルの小品。彼らしく、モナコのカジノで大金を手にしたあとで自ら死を選んだ人物に纏わる話だ。彼の死後、彼からの手紙を託される主人公の年齢は54歳。ちょうど今の自分と同じだ。 主人公は、自然科学系の翻訳をしながら自由が丘に高級輸入ステッキの店を開いている。彼は、手紙に描かれたメッセージをもとにハウステンボスに冬の花火を妻と見にゆく。
人間の感情の奥底にあるのはそんなに複雑なことではない、もっともっとsimpleでemotionalなものなんだろう。ただいろんな制約でがんじがらめにされて(自分でしている面も多々あるんだけど)、自ら色んな感情を押し殺しながら日常を生き過ぎているのかもしれない。でもそれをなかなかどうすることもできないでいる。
確かにヒトとヒトとは分かり合えないかもしれない。でも、冬の花火の明滅する横で揺れているヒトのことは幻でもそこにあったものとして覚えておくことができるかもしれない。それが生の実感であり、実感こそが生きているということなのかもしれない。多大な痛みとともにあったとしても。今は、そんなふうに思う。
ちなみに、2008年に以前のblogで自分はこんなふうに感想を書き綴っていたのでくっつけておきます。
『テニスボーイの憂鬱』では、誰かとわかりあうことなんてできない。 他人にできることがあるとすれば、 自分がきらきらしているところを示すだけだ、と記されていた。 この短編でも、格差や、ステッキに対するウンチクや、カンブリア紀の化石についてとか、 最近の村上龍の経済人としての立場を象徴するようないろんなアイテムが張り巡らされてはいるものの、 ヒトとヒトとは結局はわかりあえないのだという静かな諦念みたいなものが通底音として流れている。 花火はとてもわかりやすい。花火は一瞬で消えるが、ぼくたちに一体感のようなものを刻みつける。 ぼくたちは、誰かとともに花火を見ることで、その人と同じ感情を共有していると気づく。 妻と一緒に冬の花火を見たことがなかった。そのことに気づいたとき、本当は、きっと数え切れないほど多くの、決して取り返しのつかないことをやり残しているんだろうと、そ う思った。