#275 「永遠の1/2」佐藤正午(S59集英社文庫版)ようやく読み終えました。
いらいらしながら生きていることには間違いない。
それでもそれを随分表面に出さないでやり過ごせるようになった。
しかし、そう思っているのは自分だけで、周りの人はそんなこと全然思っていないのかもしれない。
いらいらすることは毎日数限りなくある。
それをなんとかやり過ごして、消火作業をして、次に備える。なのにまたもや不測の事態だ。
その作業のことを「医療」と呼んでもいいのではないかとさえ時に思う。
でも、イライラするからといって、激情やら享楽に身を任せることは、実はwelcomeではない。
そんな時こそ足元を固めなければならない。
だからいっつも足元の雪を踏み固めるような地道な作業を、どこかに置いている。
正月の休みに、発作的に、「鳩の撃退法(上下)」という佐藤正午さんの大作を読んだ。
電子書籍なのでまあ上下という紙の媒体の概念はなかったのだけどね。
それから続けて彼の著作をkindleでいろいろ読みまくって、
最後に、彼のデビュー作である「永遠の1/2」をまず映画で見て、
本の「永遠の1/2」(集英社文庫・昭和59年)のほうをゆっくりと読み進めてきたのだった。
今日、最終章のちょっと手前までやっときた。
佐藤正午さんの書く主人公は、本を読んでいるときは確かに自分の隣にいて、タバコ吸ったり貧乏揺すりしたりしてる。
でも本を閉じてしまうと、先日ふらりとやってきてまた遠くに帰ってしまった37年ぶりの友人よろしく、正体が消えてしまっているのである。ただ彼がそこにいて息をしていたという存在感だけがそこはかとなく残っていて、そしてゆっくりゆっくりと消えてゆくのだ。
「鳩の撃退法」もそんな本だった。だから、今、あの本についてなにか語れと言われても、途方に暮れるだけなのである。村上春樹さんの著作を呼んで鼻息を荒くして、それからしばらくして内省モードに入るあの感じとはまた別なのである。
読書というのは、以前も書いたけど、自分の力で、自分の速度で読み進んでいかないかぎり、最終ページにはたどり着かない。映画や音楽はとにかく時間で最後までたどり着く。だから読書っていうのは究極の贅沢なのかもしれない。このいらいらかイラチなのかわからん人生で、そういった時間を傍らにおいておけるように段取りできる自分を、この寒い朝にちょっとほめてやってもバチは当たらんのじゃないのかな。
10:06、ゆっくり読もうと思っていたのに、やはり今日は休日のせいかダラダラと読み進めて、読了とあいなる。
永遠は決して1/2ではなかったのだ。
・・なんて抽象的なことしか言えないけど、そんなところですかね。読み終わってとりあえずの感想は。なんの気の利いたセリフもいえないし、一言では言い表せないのが佐藤正午さんの小説であり、それは等しく誰しもの人生のことでもあるのかもしれない。だからおれも、ふらちな夢を見て、寒い朝に布団から起き出せずに、それでも時間が来たら仕事にでかけ、いらいらしながら電子カルテに向かうのだろう。そして夜ともなればアルコールの力を借りて自分を解き放ったつもりになって実はどこにもいけないってことにうすうす気づきながらも、また果てもない夢をみようとあがくのだろう。
そんなわけで、世の常に習って言うなら、一月(いちげつ)はとっとと往(い)ぬるわけだ。