だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#284 旅の空の下で読み始めた本を終える。

村上春樹さんの久々の紀行文集「ラオスにはいったい何があるというんですか?」、
断続的に読み進めてやっと読み終えた。
 
kindleにダウンロードして最初に開いたのは、あれは、土佐山のホテルの一室だった。
月が綺麗な夜だった。
夜は深々としており、樹樹の中に、丸い月が浮かんでおり、その月明かりだけなのに夜はずいぶんと明るかった。
朝には遠く夜半はとおに過ぎて、そんな旅の空の下で、眠れずに読み始めたのだった。
 
20年ほどのスパンを置いて書かれた文章なのでやや整合性に欠けるきらいはあるが、そこはさすが春樹さん、古びさせてはないです。
古い順から言うと1995年から2015年までということになる。 
時として例の村上春樹的言い回しが頭をもたげるんだけど、
「寄稿文という文体の中では小説ほどには有効に機能してないんじゃないんですか、ハルキさん?」
というのが正直な感想(この言い回しもくどいな?)。
でも、この文章たちを、いろんな場所で読んでくると、確かに旅の空に思いを馳せたり、また村上春樹さんの小説に戻ってゆきたくなるから不思議なものだ。
 
引用を一つだけー
 
僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。
電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ目で追っているのと同じだ。
何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。
本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。

 

 
触ったり、匂いを感じたり、貪ったり、そんなprimitiveな行為やら営為の中でしか実感できないことがある。
そうしてしか納得出来ないっていう事自体が、愚かなる人間存在ってことなんだろうけど、
それにしてもたしかに座ったままで得られる情報量っていうやつは増え続けている。
我々がネットと関わりあう時間はどんどん膨張してゆき、知らぬ間にアポイントを求めるメールはメールボックスの中で後方に埋もれてしまっている。
酒に酔いしれ、口にチーズを入れ、よだれを垂らして、ぼやけた頭の彼方に何かが見える気がする夜もある。
でも、翌日の二日酔いの重い頭のなかではなにも思い出せない。
進歩ないなあ。
 
そんな時、あの月の輪郭を思い出してみる。
くっきりと闇の中に描かれた丸い月の輪郭を。
自分の背後の暖かい部屋、その中で家族たちが布団の中で身を丸めて寝息を立てているのを感じることだってできるじゃないか。
そして月の光は平等に光を与え続けてくれている。
 
どこにいても旅はできる、頭のなかだって魂を飛ばすことはできる。
でも、時間と距離を稼いで、この月の下に立つことは、きっと、ね、
いかれてるんじゃなくっていかしてるんだよね、春樹さん。
 

ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集