#352 ここにいないあなたへ
カウンターに座って戻ってこない人の名を呼ぼうとして
想い出せないことに呆然とする
そういうおれはいったいどこの誰なのか
曖昧な記憶を確かめるようにポテトサラダを食す
目の前のコップの中身はたぶん芋焼酎で
それだけでも思い出せるのはきっといいことだろう
あなたの不在だけが中心にあるのだけれど
あなたのその仕草とか唇とかは思い出せるのに
あなたとの日々はもう靄の中のようだ
ここにいてほしいと思いながら
ここにいてほしいと言い出せなかったおれを
あなたは責めもしないで小さなため息をひとつついて笑った
そんなこともあんなこともどこか遠い他人の日記を盗み読んでるみたいに思えてくる
いつか笑えるのかな
いつか声を出して笑えるのかな
この人はねぇいつも酔ってからしかこないんですよ
カウンターの中で白い割烹着の男が笑いながらおれを指差す
これはおでんの匂いかな
甘い味噌で食べるこんにゃくは最高だな
たまごも好きだけど
そういえばあなたの好きな銀杏もこの店にはあった気がする
熱燗の季節が知らないうちにやってきて
おちょこの淵の神様が湯浴みしながらおれの魂のドアをノックしてく
あなたの不在は
あなたの不在は
どうしようもなく存在しているから
だから今宵も酒を注ごう ぬる燗よりちょい熱めでお願いしますよ
だって今もこの熱燗の徳利の隣の湯気の向こうに
あなたは困った笑いで座ってるんだからね
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古い本を読む。20年前、入院した彼女のためにチョイスした本だ。
古い本を読んだからといっていつも古い記憶がよみがえるわけでもないけどね。
それでも、いろんなことを思い出すことはできる。少なくともその周辺のことは曖昧でもなんとなく。だから、何度でも、死んだ人や、目の前から消えていった人たちは蘇るだろう。この自分が生きている限りはそうであって欲しい。でもその自分が自分でなくなる日が来るとしたらそれはちょっと怖いことだなあ。実際「そこに、わたしの目の前に昔の友達がいるんですよ」と、真顔で言う患者さんもいる。もしかしたらそれは間違いじゃないのかもしれないな。