だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#378 グダグダ考えても仕方ないのにグダグダ煮詰まる男が此処にもいたねえ。

 
自分なりにその場その場では頑張ってきたつもりだ。
でも、医者人生として、確固たる方針やらビジョンがあったのかというと全然そんなことはない。
 
大学に帰ってきたから、ヒトがしてないという理由で「神経因性膀胱」に取り組んだだけだし、
上司にうるさく言われたから、人一倍臨床論文の投稿をしただけだ。暗かったなあ、あの頃は。
でも、結局開業するにあたって、
それまでの泌尿器科人生で、色んな形で少しずつ携わってきた透析を、
泌尿器科の先生にではなく、松山赤十字の腎臓内科のオーソリティ・原田先生に教えてもらったから、
そして開業してからいろんな透析をされてる先生方が助けてくださったから、
今があるのだとも思う。
そう考えるとなんだか不思議なものだ。
 
自分も、大学での臨床生活の傍らに、いろんな基礎の教室を巡ったり、教授やら大学院出(当時はちゃんとした大学で研究教えてもらったヒトなんて同門にそうそういるわけでもなかった)の先生にあれこれ聞いて、それなりに研究をした。
研究もしんどかったが、まとめることはさらにしんどかった。
なんとしてでも英語で学位を取ろうと思っていたので、英文投稿したのだけど、やはりrejectされたり、実験を追加しろとか指示されたりもした。それを書けもしない英語で答えて、数回やり取りして、なんとか採用になった。
開業の準備をしながら、日赤で腎臓内科医として働きながら、そのやりとりやら英語の手直しは、夜の透析当番の合間に少しずつおこなった記憶がある。重たいMacノート、その時使うだけなのに毎日リュックに入れて担いで、自転車で通勤したよなあ。
開業してからようやく学位審査を受けて乙種博士号というものを頂いた。
大学院博士は甲種であり、そちらのほうが格上だということを後に知った。まあ、どうでもいいことだけどね。
 
こうやって書き出すと、それなりに頑張ったのかなあとも思うけど、それだけなのかなあとも思う。
自分の中ではなんだか過去になったようなだけの気もするし、血と肉になってるからいいのかなと言う気もする。
わかんない。
 
医学は日進月歩で進んでおり、開業医の自分は、マシンガンの前で日本刀を振り回してるという感じに思えるときもしばしばだ。
 
6月6日の講演は、岡山大学の准教授のセンセイによる、
スマートかつアカデミックで、その上にウイットに富んだものだった。
「難治性尿失禁に対するこれまでの取り組みと新たなる治療戦略」岡山大学 泌尿器科病態学 准教授 渡邉豊彦先生)
彼が泌尿器科として歩んできて、これからもアカデミア(大学のヒトという意味)の一員として歩む人生と、
自分の開業医人生を比較すること自体が意味のないことであるということは重々承知だ。
でもなんかうすら寒い風が吹いたんだよね。
 
音楽について考えてることと、昔学問について考えてたことがなんだか似ているような気が最近している。
音楽は、果てしない。
汲めども汲めども水は深淵から湧いてきて、その味はさらにまろやかである。だからもっとうまく底から掬えるように、理論を学び、それを手先で再現できるように練習する。
そうやって手術も学んだ。解剖を頭におき、メスを持ち、臓器の間を丁寧に剥離してゆく術も。
今、だから、果てしもない高みにある音楽はとてもつらいのに楽しい。
 
久々に、手術をした。
今の病院では手術は一人なので、ほぼしていない。
開業当初はシャントも作ったり補修もしていた。それなりの器用さを自負していた。でもいかんせん時間がない。
外来の時間までに終わらない手術はやはりされるべきではないのだと思う。
なのにまだメスを置けないでいるところが愚かしいところだ。
なわけで、パイプカットをしたのだった。
 
初稿を書いてからずいぶん時間がたったので、なにか核から離れていってる感じだけど、
自分たち開業医と、やっぱり第一線で臨床をバリバリやってたり研究をしたりしてる医者とは、別物だと思うんだよ。でもどっちも必要なんだろう。
一人の人間がすべてを背負い込む必要はない。だから医者でもわからないことはたくさんあるのはそれはもう事実として認めて、その上で自分のpositionでやるしかないんだと思う。
 
外科医(もとでしょうか^^;)としての自分、泌尿器科としての自分、透析医としての自分、開業医としての自分、経営者としての自分、やっぱり今日もうすら寒い風の中を、ああでもないこうでもないもういいかいや待てよとか進んでくしかないんだろうね。