だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#385 Talk about…2017/07/21 VOL.6. DEATH&LIVE

 (牧野植物園、高知、2017/7/9)
 
死について考えようと思った。
 
やはりそこから抜け出せないのは、「死」についての納得がまだないということなんだろう。
納得なんかしなくっても全然心配ないよ、おれは笑ってそいつと付き合ってけるよ、という心情であると思っていた。
いや今でも70%くらいはそんなふうに思っている。
そして、生命の糸がプツンと切れて物質に戻ったら、その後は何もないのだという考えにも変わりはない。
だから墓もいらないし、戒名なんて必要ないって話も。
 
不死を望んでいるヒトはきっと人一倍死を考えているんだろうな。
不死をテーマにした文学もたくさんある。ヴァンパイヤだって狼男だって、それな不死への願望を持つ人間の嫉妬が生み出したものかもしれないではないか。
本屋に、萩尾望都先生の何十年ぶりかの「ポーの一族」が平積みされてた。
あれって、不死の話じゃなかったっけ?なんて思ったのだ。
平井和正の「ウルフガイ」こと犬神明さんは、作者亡き後、今頃どこで何をしてるんだろうね、とか、
そういえば自分の好きな「妖怪人間ベム」も人間界の裏側で今も人間たちの荒廃した精神の井戸を掘り続けてくれてるのかなあ、とか、
梶尾真治先生の「エマノン」はいまもくわえタバコで旅してるんだろうな、とか、
そんなことどももおれを形作ってくれたんだとしたら、やっぱりまことにかたじけないであります。
 
そして「死」は突然訪れるものではなく、身体機能やら、認知機能の衰えとともにじわじわ真綿で首を絞めるように訪れるから、それが一番怖いのかもしれない。
自分が自分でなくなってしまったさらに延長線上に「死」が「でええん」と待ち構えているというイメージは確かにちょっとやりきれない。
 
日野原先生は死ぬ直前まで「清明」で人一倍話されたという話を聞いて安心した。彼はきっと自分の死のイメージの中で絶命したのだと勝手に思う。
急に苦しみあっけなく死んだオヤジは死の前の週も普通にお遍路参りをしていたし、膵臓がんが発見されて自分の死を覚悟して3Mの闘病の上死んだおふくろは麻薬で意識が朦朧とするまではまさに闘い続けていただろうし、その2つの身近な死のどちらがどうだなんて論評することなんて出来はしない。
そしておれの延長線上にも確実におれの死はある。
 
それがどう転んだのか、
 
ずいぶん以前にリアル書籍の方で手に入れていた細野晴臣さんの「とまっていた時計がまたうごきはじめた」という対談形式の本を毎日1章ずつ読み進めることにしたのでした。
 
対話1
「この世で起きていることのすべてが想定外。想定外がないとなにも生まれてこない」
 
細野さんも65歳になって年金をもらう歳になった。時間の経過について問われて言う。
「うん、あっという間だった。早いよね。
でも、いまは誰にとっても時の経つのが早く感じる時代なんだろうね」
 
きっと日本の音楽の黎明期からフロントラインで生きて、いまも音楽に携わってるそんなヒトの、口から出るリアル・ワードが聞きたいんだろうね。
 
昨日も、昼間ラーメン喰って、カホンのパターン教わって、facebookの知り合いの彼女と島村楽器で出会って(彼女はギターを習われてますよ。)軽口叩いてる時に、突発的に思ったんだ。
やっぱりヒトしかないのじゃないのかな。
その人間を示すのは、こんなblogでもなく、そのヒトの地位でもなく、そのヒトを取り囲んでる人間ってやつが(仕事もプライベートも含めて)その人を表すんじゃないんだろうか。
・・ってね。
 
まあ相変わらず脈絡ない話ってことで。