だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#392 「戦場のメリークリスマス」(1983)

戦場のメリークリスマス Blu-ray

 
やっぱり戦争の映画を見てしまいますね。
 
大島渚さんの1983年の作品「戦場のメリークリスマス」を、
デビット・ボウイ逝去記念にNHK-BSでやってたのを録画してあって、やっと観ることがかないました。
公開当時に観たはずなんですけど、全く失念しておりました。
 
たけしが例の笑顔で「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」って言うとこと、
坂本龍一演じるヨノイ大尉が david bowie演じるセリアズ少佐と抱き合う(ボウイの方から寄っていったのがホントですけど)ところしか覚えてないというお粗末さでした。
 
戦争は本当に狂気です。
狂気の中の狂気であるために、狂気がまともに見えてしまう。だからみんな判断基準が狂ってしまう。その狂気を箱の様な収容所の中だけで描き切った大島渚はやっぱり天才なんです。この映画、それに男しか出てこんもんな。すごすぎる、すごすぎる。そしてほんとに怖すぎる、すべての歪んだ風景がなぜか当たり前に見えてきて、いつか自分も銃剣持って英国人捕虜を監視してる一兵卒のような気分になってくる。1942年のジャワ島でね。
 
戦争が終わり、ハラ軍曹が処刑される前夜、ローレンスが収監所を訪ねて二人は昔話をする。
 
ハラは「死ぬ覚悟はできております」(I’m ready to die)っていう。
 
でもその言葉は、たぶん英国人であるローレンスの中に響いているものと、軍人であるハラの心の中のニュアンスとのの間に、戦争が終わったとはいえ、幾万光年の隔たりが永遠にあるんだろうと思う。
 
そう、端的にいうと、ヒトとヒトとは決して分かり合えないのかもしれない。
だからこれもいつも言うことだけど、分かり合えない前提で接していかんとだめなんだろうなあ、そうしていくしかないんだなあという諦念はいつも自分の中にある。
 
だけど、捕虜と帝国軍人と、ハラ軍曹(たけし)とローレンスと、ヨノイ(坂本龍一)とセリアズ(ボウイ)と、一瞬だけど心が通じ合うのは、やはりhuman beingとしての共通認識があるからなのかもしれないな。
 
だったら、捨てたもんでもないんじゃないの?
 
・・で現実世界を振り返るに、アメリカと北朝鮮、ドイツ、韓国、中国、フランス、インド・・わかりあえるなんてやっぱり幻想にすぎないんだと思う。
それでも追い求めるんだけどね。
 

帰ってきたヒトラー(字幕版)

 
同時期に観た「帰ってきたヒトラー」(2015・独)も、笑わせながら怖い映画だった。
ヒトラーが自決前の地下壕から現代のドイツにタイムスリップするんだけど、この世界では、彼はコメディアンとしてしか認知されず、しかしそのトークと風貌でどんどん人気ものになってゆく、そして・・という映画。
時代ややり方が変わっても、結局人間なんてそうそう進歩なんてできない。今でもどこかにヒトラーはいて、チョビ髭の手入れをしてるのかもしれないな。
 
ヒトラーは映画の中でもことあるごとにこういうんだ、「我が国民のために」って。
 
この国のAくんだって、病気から不死鳥のように蘇って、二回目の首相してるのは「我が国民のためだ」っていうんだろうしねえ。
 
だからおれはやっぱり、大義の中に生きていたくはないんだ。
そう思う点で、ただの小物なんだといつも気付かされて落ち込むんだけどね。
大義の匂いがするものなんていくらでもある。
宗教とか学校とか、組織とか、あげればキリはない。
自分だってその中にいるくせに、背中を向けたくなるんだよね。その時点で小物だってことか。そのくせいつも何かを欲しがっている。