だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#436 知恩院の納骨堂で木魚を叩く。fiddleで「月の砂漠」を弾く。等価なんだよ。

 
名前だけは知ってたけど、はじめていった(日本全国そんなところばっかよ)「知恩院」、
「なんまいだぶ」浄土宗・法然上人の寺だった。
例の、みんな念仏を唱えさえすれば往生できるというものだ。
 
ちょうど見物してたときに、何組かのご供養をされていて、最後にお坊さんが「南無阿弥陀仏」を10回ご唱和くださいと行って、その場にいたヒトも自然な形で追従していた。
これが日本という国なのだ、と、感心したのは、
歩き疲れた足をさすりながら、無宗教の自分さえもが畳の上に足を投げ出したまま合掌してとなえていたからでもあった。
この世は地獄だから、あの世に西方浄土を求めるという考え方には、でも承服できずにいる。
だからいつまでたっても、仏事の中では居心地悪いままの自分だ。
 
死んでから49日旅をして、やっと「仏」になるという。
自分のvisionでは、その旅路は、法衣をまとった「故人」が、ラクダにまたがって「月の砂漠」をしずしずと薄明かりに導かれてどこまでも進んでゆくというものだった。
拙すぎるvisionではあるけれど。まったくねー。
 
だから、3月最後のviolin(fiddle)のセッションでも、相棒のAkikoにお願いして、「月の砂漠」をアレンジして弾いた。
ブレーメンの音楽隊」みたいにせめてものにぎやかしでね。
その場の誰も知らなかったけど、これがおれの鎮魂歌なんだとそう思いながら弾いた。
 
知恩院の見物の最後の当たり、
階段の上に開かれたお堂があって、そこに木魚がいくつも置かれていて、自由に叩いていい感じだった。
一人が叩くと、やがて他の子供達もならってくれて、幾つもの音階の違う木魚の音が、調べになって、それは南無阿弥陀仏にも聴こえてきた。
 
自分は特定の「宗教のコトバとか戒律」とか、持ちはしない。
だけど、知恩院の納骨堂に置かれた「木魚」を無心に8ビートで叩き続けて、目を閉じて片方の手を合わせたときに、
なんだか、月の砂漠を行く「故人」の姿を、遠くから優しい目で見守れたような気が、一瞬だけしたんだ。