だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#459 初盆

 
灰になってホカホカの遺体は、結構な量の骨をまとっていた。
彼は大柄な男だったかだらけではなく、きっと骨密度は十分にあったのだろうな。
高熱で炭化したその骨を、係の人と親族とで、割って骨壷に入れてゆく。
ここはどこの骨だとか解説しながら、彼はなめらかに仕事を進めてゆく。
入り切らないものは処分するのだそうな。
骨壷に入ったその骨たちも、墓の下の暗闇で少しずつ溶けてゆくのだろう。
おれのおやじだった男の86年の帰結が目の前にある。
だからおれはスマホを出して、彼の全身を写真に収めた。
この場所は撮影禁止だったらしい。
自分は知らずに撮ってたわけだけど、
なぜ自分の親の骨の写真を撮ってはけないというんだろ?
それってstrangeじゃないか。まったくstrangeだ。
山の中腹の葬儀場の前の道を、何台もの産廃トラックが通り過ぎてゆく。
なかなかな速度だな。
その奥で、死ぬ速度が過ぎていくというアイロニー
ここは天国じゃないんだかといって地獄でもない、
そう甲本ヒロト氏はかつて歌ってた。
 
親父が死んでから、1年以上の月日が過ぎた。
義父が死んでから、4ヶ月だ。
 
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塚本晋也監督の「ヴィタール」(2004)という映画を観た。
事故で記憶を失った医大生が、解剖の実習で細かく解剖を進めていたのは、実は自分の車に同乗していて死んでしまった恋人だったという、
そういう話だ。
彼はやめていた医学の道を、なんとなく取り組み始め、そして医学部に入学し、解剖実習でたまたま彼女の遺体に当たるのだ。
それを彼は必然とまで言う。
 
実習は、複数の人間で一人の「遺体」を数ヶ月かけて解剖させていただく。
実際の自分のときもそうだった。確か6人で人グループじゃなかったかな。
でも、塚本監督の話だから、愛がどうのこうのとかいうお涙なんかじゃ全然ない、
「ほんとに生きててる」ってことはどういうことだという、その問いかけと呻吟のドラマだったのだ。
そして、
彼は、
結局、
死んではいるものの「他者」である「解剖台の上の彼女」に救われるのだ。
 
その問は、いつも自分にも向けられているものだった。
オレは、ほんとに生きてるんだろうか?
その問はもう何百回繰り返されたことだろう。
なにかを思い出したような気になる一瞬があっても、その次の瞬間には消えている、
その感覚を、主人公の浅野忠信のセリフが思い起こさせてくれた。
 
だからホントはここにいるのはオレではなくって、
人類の記憶をインプットされて移住した火星で、
最後のロボットの見る夢であってもたしかになんの違和感もないだろう。
 
そして、現実がyesで、あっちの世界がnoだなんて、それも誰もわからない。
でも逆だってどうだかわかんないよ。
 
そういえば、お盆とやらは死者の季節でもあり、
この季節になると、死者がわんさか帰ってきて、このあたりもいっぱいになっているという。
 
オレの肩口からも、こうやってPCの画面覗いてる輩がいたりすると面白いかもね。
 
まあ生きている人はいろんな理屈でこの世を作ってきたんだからねえ。
 
でも現世であくせくしてる自分にとっては、
山の馬頭観音の顔を見て頭を垂れるときくらいが、死者を思う時間で、それでいいんじゃないのかな。
そう思うよ、やっぱり。
 
そして、生きる死者にならないことくらいかな、自分に思いつくのは。