だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#505 燕の巣と「未来のミライ」(2018)

散歩の途中、ジムの軒先に、ツバメの巣を見た。
 
シャッターチャンスをと思い、あさはかなおっさんは、口を開けて眺めている。
親は餌を与えたかと思うとすぐに飛んでゆく。
そして忘れた頃に戻ってくる。
その繰り返しだ。
 
親の愛は人間においてもホントは「無償」なんだと思う。
自分のことだけど、こんな可愛げもない(いやbabyのときは天使だったのだと信じよう)クソガキを育ててくれた。
人間のガキは動物以下以下以下で、自分ひとりでは決して生きてゆくことはできないだろう。
外敵から守る毛皮も羽毛も持ってないし、咀嚼だって嚥下だって不十分だ。
何年間かは直立することもできやしない。
飢えを察知してピィピィ泣き叫ぶことくらいしかできない。
そんな弱っちい生き物を育ててゆけるのは、「本能」的なものだけでな不可だと思う。
 
だけど、その「無償」がずいぶんズタボロに壊れてきてるのは、
「後天的」な要素がずいぶん壊れてきたってことなのかな?
 
もう「あたりまえ」というコトバ自体が、死んじゃってから久しいよなあ。
 
ツバメの子供は、孵化から巣立ちまでたったの2w、人間はまあ20年だもんなあ。
 
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細田監督の「未来のミライ」というアニメを観た。
 
長男のくんちゃんは、新しい妹「ミライ」ちゃんの出現で、自分がかまってくれなくなるので、いじけて大変。
なんでも「くんちゃん、好きくない」で片付けるミニ暴君だ。
お母さんは編集の仕事を再開し、フリーになった建築家のお父さんが育児を受け持つことになる。
そんな「くんちゃん」の日常に、
未来からやってきた女子高生の「ミライ」ちゃんやら、
ダックスフンドのヒメちゃんやら、
若い時のこれまた暴君お母さんやら、
戦争から生き残って帰ってきたエンジニアのひいじいちゃんのドラマとかが錯綜する。
血はつながっており、AがなければBはなく、BがなければCはなかった。
だから必然として、自分の存在は、「血(血縁関係)」のもとにあり、それはドラマであり、確固たる現実なのだと。
 
「ミライの東京駅」の地下深く、
迷子(自分自身を失った子供)の子供が乗りこまねばならず、どこに行き着くかわからない新幹線(行く先はひとりぼっちの国とアナウンスされた!)、
その電車に自らも吸い込まれそうになり、
呪縛をなんとか振り切ったくんちゃんが、
ちっちゃな無防備である妹の「ミライ」ちゃんに手を差し伸べる、
その行為自体が、
「未来(ミライ)」につながる唯一のwayなのだと思う。
 
そう、
自分から手を差し伸べるという行為だけが、(一方的に)与えられたものに拮抗できるものなのだ。
 
そうやってヒトはコミットして生きていかなければならないのだな、と、思わされた。
 
 
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そして、またご都合主義的なこと言うけど、
まだ見ぬ自分に手を差し伸べて引っ張り上げてやるのが今の自分の役目なんだと思うんだよ。
だから引っ張ってもらうだけの理由のある自分であるという努力とか情熱が重要になってくるんだよ。
この半世紀生きてきた燃えカスの鉱脈に火をつけてね。
月までは飛べなくっても、50mくらいは飛び上がれるだろ、おっさんよ!
 

未来のミライ