長く見させて頂いていた患者さんがなくなると、自分の体の一部が引きちぎられるような感じがする。
だから研修医のとき、外来を持たされてなかった頃は、
病棟の受け持ち患者さん(だけ)が世界の大半を占めていたので、その人達とホント「共存共生」しているような感じだった、今から思えば。
その頃の患者さんたちのことは時々、昨日のことのように思い出す。
開業して、手術もしなくなり、そんなスタンスも少しずつ変わり、
今は外来で見させてもらう患者さんが増えすぎて、全員の詳細なバックボーンを知っているわけではないが、それでも付き合いは長くなった。
だからふとしたきっかけで訃報を聞くと色々想像してしまう。
透析患者さんとは2日に1回は顔合わせているので、これまた不思議な関係だと思うし、
自分は慌ただしい回診のあと、外来にへばりついているのでともかく、
自分の親以上の歳の患者さんを相手に、一日中傍らで治療にあたっているうちの透析スタッフはほんとえらいなあと思う。
彼が妖怪を倒すたびに、その妖怪が持っていった体の一部が、百鬼丸の体から生えてくるのだ。
その度に、彼は世の中の終わりのような痛みを感じながらも、自分の臓器を取り戻すのだった。
そこには喪失と再生があるんだけど、
患者さんがいなくなる時は喪失の方が大きい。
そんなことをもう何度も何度も繰り返して生きてきたし、その事にある程度は慣れていても、やっぱり最後の最後は、喪失感がすべてをさらってゆき、しばらくはそれを埋めるものなど何もない。
虚しさが残るだけだ。
でも考えてみれば、生きとし生けるものの最終は「死」であり、そこにたどり着くことは自明の理なのだだから、
最終到達地点の「死」の意味も大事だけど、どうやってその人(死)にさよならと言えるか、自分とその人との折り合いをつけるか、それに尽きる。
だからもういっぺんいうよ、アデュオス、アミーゴ。