#675 寒い冬の日「アート山大石可久也美術館」に連れて行ってもらう。
寒く、強く風の吹く日、家人に淡路島に連れて行ってもらった。
淡路島の南に泊まって、次の日ホテルをチェックアウトして北の方に向かって車を走らせる。
淡路島には 限りなく土地があるように思える。
橋がつながるまではどんなところだったのかは見当もつかないが、こうやって橋が四国と本州を結ぶように連絡して、きっと淡路島は 便利な島になったのだと思う。
美術館の名前は「アート山大石可久也美術館」というものだ。
この 自宅兼アトリエ兼美術館 を建てた大石可久也先生は、九十歳を超えて数年前に亡くなられたそうだ。
今はその意思を継いで NPO 法人となって運営されているという。
芸術家である奥様は敷地内に住まれて生活もしていると、管理人の方に伺った。
この山はもともと牛の放牧場で、そこを 買い取ってボランティアの手でひとつひとつ整備されていったのだと言う。
壁の年表を見ると、先生は40歳の頃美術教師を辞めて芸術一筋の道に入ったという風に書かれている。
それから50年余りの人生、 凡人の自分はどうやって食ってきたのかなという風に思うけど、それは下衆の質問でしかない。
芸術というのは実は孤独なもので、 作っている間は確かに熱中できるかもしれないけど、
そこになかなか他人との共同作業というものは入ってこないし、
そしてオーディエンスが絵画を眺めてくださる時間なんぞあっという瞬間だ。
音楽も同様だが、音楽はね、一緒にプレイできるからなあ。
それでも芸術家はなぜ作品を作り続けるのかという問いは、
人間は何のために生きるのかという問いにも似ているように思う。
人生においては飯食ったり、糞したり、歯磨いたり、寝たりという行為は必然だけど、絵を描くために筆を取るという行為は、「意思」でしか生み出せない所為だからなあ。
安野光雅さんが言ってた。
「雲中一雁」という言葉が好きだった。
群れからはぐれて飛ぶ雁に自分を重ねたのだ。
「絵描きもほとんど一人旅で、認めてもらえなくてもやむを得ないという前提である」そうだ。
清い。
ああ、俺は世俗にまみれまくっている。きっとほとんどのひとはパンが必要だ、そう、パンは必要だ。かすみよりもね。だけどね。
つまらないことを書いてしまったけど、
そんな美術館やら寺を見つける相棒の感性にはいつも驚かされている。
そして彼女は水彩画を描き、おいらは iPad や万年筆で相変わらずの絵を描いている。