だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#360 2017/01/07-08 ③岡山県・奈義町現代美術館にて・・

この美術館は、建築の段階から、芸術家とコラボして、空間的作品と建造物ができたのだという。
なんて贅沢で素晴らしい。
「太陽」「月」「大地」が象徴的にそのメタファーとして使われているとのことだ。
ちょっとびっくりですよね。
作られたアーティストの方は、大半が亡くなられていた。
でも作品はこの地でに残り、生きつづけるのだ。
中学校のときの英語の文章そのまんまだね。
Life is short,art is long.
ぜひ皆さんも、行かれてみるといいと思いますよ。
ほんと訪れるお客さんもぼちぼちですから、アートを独り占めできますよ。
あゝ、目を閉じると今でもあの空間の広がりを感じることができるんです。
そんなものを心の中にいくつ持つことができるのかってことですよね、ほんとに大事なのはね。
星の王子さまが言った、ほんとに大切なものは目には見えないんだ、のspritですかね。
 
美術館の隣の、町立図書館も素敵な空間だった。
自分はそこで、「暮しの手帖」のバックナンバーの、
土井善晴さんの話を読んだりした。料理もまた、artであり、ideaである。
 
 

#359 しかたねえよね。ほんとしかたねえ。

年の瀬もいろんな死があった。
 
患者さんが死亡したときには、当然だけど、その患者さんの死亡診断書を書かなければならない。
じゃないと、火葬できないからね。
亡くなられてから葬儀屋さんがこられるまでの短い時間で書類は作成されるわけだけど、
病気のはじまりのこととか、カルテを眺めながら思い出してちょっととまるんです。
ああこんなこともあったなあ、そういえばあのときはああだったよなあ。
 
病歴の長い方のほうが、そして合併症の多い方のほうが、これがいいのか悪いかは別にして、印象に残る、残りやすい。
自分の場合は、透析患者さんとは自然と付き合いも長くなってくるし、2日に1回は顔を合わせるので、まあ密度も濃いといえば濃い。
透析室のスタッフだとなおさらだろうなあ。彼らにとっては家族よりももしかしたら接する時間が多いかもしれんもんなあ。
 
そして、死の記憶が一段落するかしないかの頃に、生命保険の書類を頼まれる。
またそのときに否が応でも、患者さんの人生をトレースすることになる。それはわかってはいても結構ハードな作業だ。
生の最終地点には、死しかないことを今更のように思い知らされる。
幸か不幸かそこから逃れうる方法を人類は発明していないからね。
 
それはいつか自分にも訪れるのだと知っても、知らん顔をしている自分がまだそこにいる。
だから、灰になっても、実は消え去るものではないんです。薄れてゆくだけの話。
そうやってみんな積み重ねていってるから、
HDDみたいに初期化で真っ白にするなんてことはそうそうならぬことも知っていて、
それでもあがくのはどうしてなんだろうね?
しかたねえよね。ほんとしかたねえ。
 

Death.

#358 2017/01/07-08 ②岡山県・作東美術館で「ペイネ」をみつける。

新聞で見たのだった。
 
現代美術館が町立であるのだと。そこでは体験型でアートに触れることができるのだという。
立体的に作られた竜安寺の石庭。庭に巨大なオブジェが生えている。ひさしと音響の空間は、奈義町中秋の名月の午後10時を向いて建造されているという。
こんなよだれものの空間が、あるというのだ。いわばなんにもない場所に。
その場所は、岡山の北部で、美術館の名は「奈義町現代美術館」という。
 
今回の旅はそこにゆくという望みから始まった。
それだけから膨らんでいった。
 
そこに辿り着く前に、作東町の美術館に立ち寄ることにしたのだった。
 
ペイネの絵(リトグラフ中心)が常時60点ほど展示されているという「作東美術館」に、雨の中たどり着いた。
美術館らしい建物なんてない。
庁舎の一部、図書館の2Fにその美術館はあった。
失礼だけど、なんでこんな田舎にという感じだけど、ロビーにはロダンの彫刻も普通に鎮座している。
 
絵を見てまわっていて、
90すぎまで愛をモチーフに描き続けたこの画家が愛おしくってたまらなくなった。
絵があるから、もしかしてそれだけの長寿を生き得たのではないかと、確信もなく思った。
いやこれだけの絵を描くというか、愛のモチーフを想起できる感性と頭脳があったから、生きたのだ。
それはシャガールをも想起させた。
だから、酔っ払って描くおれの絵も捨てたもんじゃないかもね、とも。
 
絵を見て、なんだか懐かしい気持ちになった。
 
そして、ある絵の前で止まって、はたと思い出したのだった。
そうだ、この絵は、薬局のN先生が、記念でうちの病院にくださったあの絵だよ!
海の上のボートの上で恋人たちは見つめ合い、水の中に映し出された自分たちを見ている。
「恋の湖」というリトグラフだ。
その絵はうちの病院の受付の壁に飾られている。
 
「 私たちほど愛し合っているカップルはいないわね 」
「 そうかな、見てごらん、水の中を… 」

 

こんなにもおれの身近で、ペイネの恋人たちは愛を囁いていたのだ。
 
愛はここにある、きみはどこにもいけない
これは玉置浩二さんの歌だけど、ね。そんな感じ。
 
 

http://atelier-de-paris.jp/pic-labo/peynet_L112.jpg

 
 

 

#357 2017/01/07-08 ①湯郷温泉

土曜の仕事を終えてクルマで、瀬戸大橋を渡り、かなり遠い、どちらかと言うと鳥取に近い湯郷温泉に。
今回の本来の目的は、さらに遠い「奈義町現代美術館」というところなんですけど、
そこに行くまでのお泊りということで「温泉宿」をチョイスしたわけです。
これがまあ自分の正月休みってことで。
この酉年の一年も始まったばっかりですが、またまた忙しい1年になりそうですけどね。
岡山には高校までいたんですけど、自分のうちにはクルマもなかったので(そもそも運転免許を有しているヒトがいなかった)、こんな県北まで多分行ったことないのではないかと・・。
まあそんなわけではじめて行った小さな温泉街なのに、そこはちゃんとした温泉街でしたよ。
料理もそれなりにゴージャズでした。なんせ鷺の浸かった温泉だもんなあ。由緒あるよなあ。
写真の羅列で温泉気分を思い出しましょうかねえ。
 

https://www.instagram.com/p/BO-qEVtAtrO/

まだ暗い中、湯に浸かっていると、体の中からアラーム音がした。周りを見回しても誰もいない。バブルのはじける向こうに確かに音はあったんだ。そうか自分は自分というアプリを入れられた箱だったんだなと気づく。だから確固たる自分なんてどこにもないんだよとすべてはドロドロに溶解していく朝。まだ酔っ払っているのかもしれない。そう悪い気分でもない。でも夢なら夢でいいよ。こんな朝には誰かあの世から来てくれるかもしれないから。やあって手でも振ってね。また一緒に飲めるといいね。

https://www.instagram.com/p/BO-5hkxArv4/

日本庭園という意匠をこらしたに庭は実はあまり好きではない。一幅の絵画の中に人生を埋め込むというやり方も確かにありかもしれない。ゴーギャンあの有名な作品のわれわれはどこから来てどこへ行くんだろうと言うアレもありかもしれない。でも人生なんてケセラセラでのほうがいいんじゃないのかな。今日はそんな気分です。この水が廻廊をしていく作りの庭ならなんとなく心を解放できるかななんて思ったりもしましたよ。

 

#356 ぼくがここにいる理由

 
もう随分長い間、ここにいたね。
今もそう、こうしてこの席に腰掛けている。
窓の外で、景色や時間が流れてく。戦争や嘘や火事や災害が流れてゆく。
おれも随分長いこと誰かのyesmanだったんだ。
yesmanだから誰かを傷つけてもいいってことには決してならないけどね。sorry,sorry,sorry.
 
きみがこうやってここにいるのも多分理由はあるはずだ。
おんなじ理由かちがう理由で、おれもここにいるのだと思う。
もう遠い昔のことだからぜんぶ忘れちゃったけどね。
忘れたら、そう、思い出せばいいってそんな簡単なことになんで気づけなかったんだろう。
 
過去は戻らない、だから出てゆくのも帰ってくるのも勝手だ。
誰がドアにカンヌキをかけたっていうんだ?
ほら風にドアの軋む音が聞こえないか?
今度バタンと音がしたらドアは開かれるだろう、その知覚の扉の向こうにはきっと懐かしいジム・モリソンの声だ!
 
音楽が流れてるよ。
音楽が流れてくるよ。
おれたちが死のうとした夜も終わったんだ。
すべてが終わって灰になっても、おれの魂の奥底のあたりでざわついてるものは消せはしない。
 
音楽には意味なんてないのかもしれない。
でも感じるものの心の数だけ音楽はあるんだと思う。
コトバや音は、おれを殺し、きみを殺し、
そしておれやきみや、あの娘をも、よみがえらせて、そして救ってくれたんだ。
 
足りぬことを知れ、昔の人は言った。
足りない人を貶めて実は自分をも貶めていることを知れ。
きっと繰り返す愚かさにも実りの雨は注ぐだろう。
耳を澄ませてごらんよ、
耳を澄ませてごらん、ほら、音のない優しい雨が降っている。
 

Kiosque de Peynet


Peynet was here

Un cœur a prendre , kiosque de Peynet Valence Drôme France





 
 
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こうやってこの人生に55年間居座り続けている理由を探そうと思ったこともあった。
今も答えを欲する時があるのはあるのだけれど、
そこに重きを置くくらいなら、先に重きを置く方がいいと思っている。
だって、無限の生などありはしないし、おれが死んじゃって転生輪廻したって、それは今のおれじゃないんだからね(2017/01/09 15:21)。

#355 音声入力不具合起こり、「ケータイ補償お届サービス」でiPhone交換の顛末。

 
12月中旬くらいからなんかおかしかったのだった。
 
音楽の練習をするのに「Siri,30分タイマーを」とかお願いするんだけど、だんだんSiriちゃんにそっぽ向かれるようになった。
「なにを言われてるか聞き取れません」、
そのうちうんともすんとも言ってくれない感じ。
 
「OK,Google!」さんの方はちゃんと働いてくれるし、
久々に復活させてみた「Dragon Dictation」(自分のblog調べてみると以前に多用していたのが、2011.4くらいでiPhone4sくらいのときでしたよ)もバッチリ反応してくれる。
(余談ではあるが、Dragonの音声認識のほうがSiriを遥かに凌駕していたのにはびっくりした!)
ちなみにもう一つ持っているiPadの方やら、家人とか娘の方のiPhoneも反応してくれる。
自分のやつだけがSiriちゃんシカトなのである。
だからどうもiOSバージョンアップのせいでもないようだ。
 
実は2019年から紙の手帳廃止の構想も進めており(ちょっと間に合わんかったけど、いやオレの人生間に合わんことだらけかな・・)、
そのプロジェクトの中でも「音声入力」はカナメであった。
だって、デジタルの板にスタイラスペンで入力して、それを画像として取り込むというのが、
アナログ→デジタルへの移行でも一番楽ちんなパターンだけど、
それだと、データの検索きかないからなあ。
やはり、textでデータは残しておきたいからなあ。
そのためにもなにがなんでも「音声入力」は必要最低限だったのだ。
それも自分が最も愛するiPhone6sでの頻用がのぞみであったというのに。くくく。、
 
ネットで調べてみると、過去からどうもこういった現象はまあまああったようで、結局は、再起動とか復元してもだめな場合は、交換になるらしい。
ええ、自分もしましたよ。
再起動やら、iTuneにバックアップしての復元やら(2時間位かかったかな)、あの手この手を尽くしました。
Siriちゃんにむかって大きな声でがなると、文節の一節くらいをかろうじて聞き取ってくれるという、なんだか中途半端な感じのレスポンスなので、ずっと迷い続けて、いつかある日治るんじゃないかと思いつつ、結局年を越しました。
 
で、元旦にふと思いついて、ドコモの「ケータイ補償お届サービス」を探し当てたわけです。
以前も液晶割ったときにお世話になったんですよね。
症状を細かく記入して、Webで送信すると、すぐさま代替え機を送ってくれるとへんじが!
なあんだ、これって故障なんだ、あれこれ悩むんじゃなかったわ!
で、たったの一日で代替え機は送られてきて、現在復元中であります。
 
自己負担は7500円で、これを高いと考えるか安いと考えるかは個人次第でしょうけど、あの悩んだ日数を考えると安いものです。
スマホはもはや、PC並だもんなあ。いついかなる故障が起こってもブラックボックスみたいな部分に対してはお手上げだもんなあ。
 
でも完全復元というわけにはいかず(まず送られてきた交換機に最新のiOSを入れるところから始めなくてはならなかった。こうゆうのって、いつまで自分だけで対応できるんだろうかねえ・・)、
ドコモの携帯アドレスは消えてて、焦りましたが、これもネットで調べて、プロファイルをinstallして復元しました。
 
iTUNEと音楽同期設定してなかったので、iPhone内の音楽は消えとりましたけど^^;
まあなんとかなりそうな感じですかね。
 
久々のガジェット覚書であります。
 
 
 

#354 旅する流れるとどまる

水惑星年代記 月刊サチサチ (ヤングキングコミックス)

今日の一言;
 
「それでも人間には便利な機能がついていました
ヒューズが切れたら寝ちゃえるってことだ」
(月刊サチサチ 大石まさる より)
 
いえい!
眠りは誰もを等しく殺し、状況が何も変わってないとしても、蘇らせてくれるよ。
 
旅に出たいと希求する。
 
それは最初はこの日常から逃走したいという安易な発想からだ。
でも日常は生活の基盤であり、そこに帰ってこなければならないことはわかっている。
基盤が崩れたらそれは、放浪で、旅にはならない。
 
非常に都合の良いコトバに「ノマド」なんていうのがある。
このITの進んだ世の中なので、PCと通信環境さえ揃っていればどこでも仕事になるというものだ。すんばらしい。
でも、man to manで仕事しているオイラにはそのコトバは、「旅」という単語同様遥か彼方できらめいているだけだ。
 
若い女の子が、バイク一台で気ままに旅に出る。彼女は放浪しながらも、雪の中の小屋に居住地を定める。生活が生まれる。なんかどうも彼女は翻訳の仕事で下訳しながら生計もたてつつ、掘っ立て小屋暮らしをしてるらしいよ。うらやましいなあ。そんな漫画を久々に読む。
涙がぼろぼろこぼれてくる。
どうしてかわかんない。
彼女はまた次の旅に出る。今度は南に向かって。
たぶん彼女の辞書にはサヨナラの言葉はないんだと思う。
 
ずいぶんサヨナラを言ってきた。知り合いにも、そうよく知らない人にも、患者さんにも、自分の親にも。
こんにちわよりサヨナラの数のほうが増えてきてるような気もする。
サヨナラの前には、それはともに過ごした時間とか経験とかが横たわってるせいなのかもしれない。
だからサヨナラの重さのほうがまさってきてるのかもしれない。
生まれた赤ちゃんにこんにちわを言っても、そのつぶらな瞳の中に、今後オレと共有する時間があるのかどうかなんて誰にもわかりゃしないからね。
 
ノラ・ジョーンズの声が心地よい。
どんなに離れていても自分の耳元にあるような、そんな彼女の声のような、
別れた人たちはそうやっておれの耳元でたぶん囁いていったのだ、だから忘れることができないでいる。
 
だからどこに行っても実はおんなじなのかもしれない、おれがおれであるかぎり。
あなたがあなたである限り。
それでも、違う景色の下で、違う風に吹かれながら、
あなた達の囁きをまたまどろみの中で聴きたいと余計に思うのも、これまた真実。