#384 Talk about….2017/5/01 VOL.5. KOTOBA
(牧野植物園、高知、2017/7/9)
「読む」と「書く」は、本当の意味で何かを認識しようとするひとつの試みの、二つの側面にほかならない。真に認識することをここでは「分かる」と表現する。人生の意味を「分かろう」とするとき、「読む」と「書く」は、呼吸のように分かちがたく結びつく。現代の心は、幼いころから「読む」ことによってため込んだ情報でいっぱいになっている。私たちはそれを、ひとたび「書く」という営みを通じて世に放つ必要がある。人は思っていることを「書く」のではない。それはメモにすぎない。むしろ「書く」ことによって、自分が何を考えているのかを知るのである。
これは「思索」に関する随想である。
なかなか深い洞察だなあと思ったので引用して抜き書きしてみた。
例えば、ものごとにはinがあればoutがあり、日本語には表裏一体などという便利な言葉もあり、
自分でいえば、ONで仕事をしてOFFで酔っ払ってはしゃぎすぎていたりする。
やがてアレもこれもが混沌の中に飲み込まれ、どっちがどっちだったのか既にわからなくなる。
そんでねえ、そんでねえ、
実は一方通行などはないのだということをくれぐれも忘れぬようにね、という、まるで人生みたいな考察だったりする。
でもね、相互補完できとらんことが多すぎるんよね。
実は一方通行でのどん詰まりにいてdead endになってることもたくさんあるのに、気づけないでいる。
あるいは気づいてもどうしようもなくって、対岸の火事を眺めながらこっちに飛び火しないように祈るくらいだよなあ、とか言ってるのが我々のような気もするのだった。
そして対岸の火事だと思ったことは、おれのケツに差し込まれた爆竹だったりするのだ。
火をつければ待ったなどはない瞬殺だよ。
ダース・ベイダー卿がなぜダークサイドに落ちたのかに関して、昔考えたことがあるけど、もうそんな時点ではないのかもしれないよね。
もしかしたら。
そしてわれわれの紡ぐ人生のサーガはあっけなさすぎるから。
それでもやりかえやら差し替えのできないかけがえのないサーガだけどね。
そんなしょうもない人生だとわかっていても、
やっぱり地道に足元を照らしながら一歩ずつ、我々は救いを求めて愚直に生きていくのか?
そうせねばならんのか?
問うても答えはない。
無明の闇を、じっと見つめて見つめて見つめ倒して、浮かび上がってくるvisionを待つしかないのか。
見えたかと思えたものが、
またひっくり返って、闇の彼方に消えてしまった、
正直今はそんな気分だ。
自分を形作っているものの正体は、
自分が酔っ払って声高に叫ぶものではなくって、
日常の自分の「行為」とか「営為」とか「仕事」とか、そういった枠組みでしか表出できないのかもしれない、
そう信じているから、
日々の営みを、今日も、今宵も、粛々と続ける。
ちくしょお、ちくしょお、
なんに対して憤っている、なんに対して泣いている。