#687「スターウォーズ」は「プリンセス・レイヤ」のための物語だったのか、と、 今更episode6にたどり着いて思う日曜日。
スター・ウォーズ三部作のうちの最初に作られたの三部作だね。
今回789を見て、それから123にさかのぼって、再び456というわけだけど、こうやって見ていくと感無量だね。
ルーカスが最初の一作(episode4)を作ったときには、セリフでしか説明されていないバックボーンが、今では登場人物の後ろに透けて見えているんだから、面白いものだ。
あの人のあのセリフはあーゆー流れから来てて、それで後にはああなるんだよ、とかいうのがわかるのは、良くも悪くもなかなか感慨深い。
ダースベーダーだって、456で描かれた時は、そんなに苦悩に満ちた父親では無いような気がした。
でも123を経てから見ると、彼が最後の最後で救われるところはうるうるときてしまったよ。
そしてスカイウォーカーという流れ(9作目はそのまんま「スカイウォーカーの夜明け」というタイトルだ)をかんがみるわけだけど、
個人的には、やっぱりこの「スター・ウォーズ」という映画は、
ジェダイの映画ではなく、レイヤ姫の映画なんだと思った。
(Leiaなので「レイア」かもだけど、自分はやっぱり「レイヤ」なんだよね)
前述の、789を経て、123にさかのぼって、そして456をみてひしひしと思ったわけである。
ハン・ソロはやっぱりかっこいいし、ルークも頑張ってる(なんと9作目も頑張ってるよ!)し、
でもあくまでレイヤ姫が主人公だったんだよね。
7作目からのヒロインの名前も「レイ」って「レイヤ」からきてる?
おいコラ、これはちょっと無茶苦茶なこじつけだね。
かつて、岡山の田舎の高校生だった自分は、4作目を観て、生頼範義さんのポスターに目を奪われて、
なんであんな、チンみたいな顔したお姫様なんだろうねとか、まあまあ悪評高かった「レイヤ姫」だったけど、今となっては、レイヤ姫はキャリー・フィッシャーさんでなければいけなかったのだと言うことがよくわかる。
それはほんとに残念な出来事でした。
でもその事によって、自分の中の「レイヤ姫」は永遠に固定されてしまったのだった。
だから言いたい。
レイヤ姫ありがとうって。
あの岡山の田舎でスター・ウォーズを目を輝かせて観てたガキももう60を超えたけど、あなたのことはずっと忘れませんよ。
ほんとありがとう。
それで描いた絵がこちらになりました。