だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#444 人生はきっと「永い言い訳」(2016)

永い言い訳

 

映画館に行ったのは先日の「坂道のアポロン」が何年かぶりだった。
この映画も、行きたいと思っていたのに結局知らない間に終わっていた。
 
西川美和監督の「永い言い訳」(2016)。
もっくんが主演の映画だ。
 
「長い」言い訳なら終わりもあるだろう。
でも永遠の永を使われた「永い」言い訳には多分終わりがないのだろう。
 
そしてそれはきっと生きているがゆえのことで、
ついでにいうなら死んでも多分何も変わらないのだろうとさえ思う。
だったらせめても永い言い訳を続けるしかないのだ。
 
時間が変われば関係性も変わる、それも真実だ。
でも、それなら愛なんて求めないほうがいいのか?
 
映画の最後の方でもっくんは「人生は他者だ」とメモ書きに書いた。
片岡義男さんも小説の中で「自分の鉱脈みたいなものはなく、関係性の中でしか成立しない」みたいなことを書かれていた。
なんとなくわかった気もするし、わからないままの部分もある。
 
言い訳と単語で書くと、悪いイメージばかりが先行しそうだが、
今日も明日も自分に言い訳をして、言い訳をしている自分も周りもそれで納得がいくのなら、それはそれで全然ありかもしれない。
 
きっとおれは死んでも醜く言い訳するだろうけど、「負のスパイラル」のための言い訳だけはやめとこうよね。
 
それにしても、だよ。
愚かしく、まったく愚かしき人間存在として半世紀以上生きてきた言い訳だらけの自分を、
突き落とすわけでもなく救ってくれるわけでもなく、
だから西川美和監督は見過ごせないのだ。

#443 うちごはん燻製編 しんすけsきっちん

 
今日は、いろんなトラブルやら入院やら救急搬送やら臨時透析とかで、終わる予定の仕事が今も終わっていない。
疲れた。
最近疲れに至るまでの時間が早くなった。
もうこれ以上頭が動こうとしないのだ。
それでも絞り出さなければいけない仕事は絞り出してでもしなくてはならない。
 
ま、そんな感じ。
 
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さて、昨日の料理を。
 
staub鍋の数が増えたので、余った鍋を燻製用にまわした。
 
先日天神橋(大阪)の路上で(店は満席で外の席ならOKと言われて是非にと言ったのでした)、燻製専門の店でいろいろいただいてから、また燻製熱がちょっとぶり返したのだった。
 

 
→けむパー
 
実はtaubでも燻製いけると本には書いてあるんだけど、やっぱり鍋の手入れとかスモークの匂いがつくこと考えて思案していたのだ。
ちょっと違うけど、セラミック製の鍋というのをこの用途に充てることとする。
 
まあ本格的なものではなく、室内での燻製なので、だいそれたものはできない。もともとそんな気もない。
燻製ってね、いくら気をつけても何回もやってると、鍋の底がやっぱり焦げてくるんだもんなあ。
もちろんアルミホイル敷いてその上にチップ並べてますけどねえ。
昨日調べてたら、鉄の皿しいて、その上にチップというのがあったので、次回はそれを試そうかなどと。
そうか、普通のアルミ皿で使い捨てのほうがいいかも!
 
ホタテ、チーズ、うずら卵、ちくわ、と、ビギナー編終えて、
男のあこがれ(ほんまか?)の塩鯖じっくりスモークも満足。
いよいよ塩と砂糖コーティングして一晩眠らせてた胸肉にトライするが、
分厚すぎて、食事時間に中心部までのスモークが間に合わず、
思いつきで表面が燻製された状態でグリルで焼いていただくと、これがいい感じだった。
まあ誰にも文句言われないので、この手法もありかなと。
 
ベーコンとか(こちらのほうが男の憧れかなあ・・)も書いてあるけど、
これも前述の手法で、表面をチップでコーティングしてから、ジュージューに焼くのもありだなあと、閃いたのでした。
 
やっぱり、かける時間は十分じゃなくっても料理は面白い。

#442 54歳からのピアノ その10 先生代わって、またイチからやっとります。

NHKで「ピアノの森」というアニメが始まった。
 

「ピアノの森」Piano Best Collection I

 
ピアノをめぐる素晴らしい作品だ。
実は漫画の方もちょっとしか読んだことないんだけど、
主人公のカイも周辺も、音楽に携わる素晴らしい人達で、これからショパン・コンクールに向けて進んでいくんだろうな。
アニメの方はまだ3話までしか見てないんだけど、3話目は思わず泣いてしまった。
 
音楽だけではなく、いろんなことに真剣に携わってゆくと、必ず最後には自分とむかいあわなければいけない。
そのことを幼いカイが、他者に向けて言葉にしてきっちり告げたのは素晴らしかった。
 
自分は逃げてるんじゃないのかって思うことは多々あるよね、この歳になっても。
技術云々ではなく。そりゃあ精神(スピリット)だけじゃどうにもならんことが多すぎて毎日うんざりではあるけどね。
だから、たった一度の人生だからこそ、最後の最後に、自分には、自分だけには嘘をつきたくないなと切実に思ったんだよ。
 
自分は残念ながらカイみたいに音楽の「神」にも選ばれていないし、
音楽とまだ交わる(まさにFUCKという意味でも全然そこまで行ってないかなあ)こともできていない。
だけど音楽という自分の手で鉱脈を見つけて、必死でしがみついてるんだ。
 
ピアノのあゆみ先生が、諸事情で3月いっぱいでやめられて、すっぽり抜け落ちた穴が埋まるのか心配だったけど、
おかげで、新しい先生と、ゆっくりではあるけど、基礎からやり直してます。
今度の先生は理論派で、かつ、油断すると先に先に行きそうになるので、自分のペースでお願いしてますけどね。
 
kindle unlimittedで見つけた、
簡単「ピアノ入門レシピ」も2冊制覇したし、今度は「エリーゼのために!7日で弾く」に少しずつチャレンジしてます。
ジャズピアノの本で、スケール練習に取り組んでるところ。
でもスケールはすべての楽器に通ずるものがあるから、いろんな楽器で少しでも関連付けて進歩していきたいものです。
 
新しいI先生の名言より。
「ピアノも打楽器なんですよ。だからね、タッチが大事なの。」
うーんこれは目からウロコだったよなあ。
 
ピアノ基礎レシピ 2 (おとなのピアノレッスン)

ピアノ基礎レシピ 2 (おとなのピアノレッスン)

 
ジャズピアノテクニカルメソッド ジャズの練習 ビギナー編  中島久恵 著

ジャズピアノテクニカルメソッド ジャズの練習 ビギナー編 中島久恵 著

 

 

 

#441 満中陰

 
そういうわけで四十九日が来て、満中陰の法要と納骨式が行われた。
自分の親(母も父も)は無宗教という故人たちの意思だったので、全くそういう儀式めいたものもなく、
親父は死んですぐに彼をお骨にして、その足で墓に入れた。
それだけだった。それで全ては終わり。
 
法要の時、導師が言われていましたけど、
法然上人は死にあたって「自分は墓はいらない」と言ったそうだ。
なぜなら墓という形ができると、そこに行かないといろんなことが始まらないような感じを弟子たちがもつだろうからだそうな。
南無阿弥陀仏と唱えた時に、そこに法然上人はいるという、それでいいのだ、と。
自分もどちらかと言うと常識にも疎く、前述の理由で、死後の儀式とは無縁で生きてきており、
浄土宗に帰依しているわけではまったくなく、
今回の故人の宗教がそうだったということで、松山の浄土宗の寺で法要をしていただいたのだけれど、
やっぱり偉い人はすごいいいことを言うものだと思った。
ホントそのコトバには納得して感動した。
 
だから自分も、自分が思う時に死んだ親やいろんな人はよみがえるのだと、そういう風に勝手に決めているんだけど、それも間違いではない。
こんな世知辛い世の中、それで十分じゃないか、
その上にまだ「カタチ」なんてどうして必要なんだろうね?
カタチが精神を規定するのだという意味もわからないではないけど・・。
 
アーメンでも、南無阿弥陀仏でも、南妙法蓮華経でもいい。
思ったときだけその人はいる。それで十分だ。
市井の人たちは、伝記やら評伝も描かれることなく、ただただ風化していくだけだ。
記憶を有しているヒトが滅したらなにも残らない。
でもそれでいいんだと思う。
誰が砂漠の中の砂の一粒の一生を振り返る必要があろうか?
 
だから、やっぱりね、
「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」のスピリットで生きていこうと、またまた思い直したのでした。
 
*満中陰
 
そもそも中陰とはどういう意味でしょうか。
中陰は中有(ちゅうう)とも呼ばれ、古代インドの仏教では、人が亡くなってから次の生を受けるまでの49日間のことを指します。
中陰は、生と死の間の期間とされ、七日ごとに十王による裁きが行われます。ちなみに、閻魔大王は十王の一人として、五七日に現れます。 
中陰のあと、さらに百か日(100日目)、一周忌、三回忌と、計10回の裁きを受けるとされてきました。
日本の仏教では、七七日にあたる49日を区切りに極楽浄土に行けるかどうかの判決が下されるといわれています。
 
「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」

 

#440 透析患者さんとの歩こう会。

 
透析患者さんとの「お弁当&歩こう会」もなんと今年で13回目だそうだ。
 
10回目の記念を城山登山にあてて(もしものためにクルマ別働隊用意したり、車イス手配したり、弁当を病院からタクシーで輸送したり・・とそれはそれは大変)、
それからは初心に戻って、
病院から歩ける範囲で歩くというコンセプトの3回目ってことなのかな。
 
今年は、病院から、ぼっちゃんスタジアムのある「松山中央公園・親水広場」まで、畑の中をとおって歩いていった。
飛行機が飛ぶのを3回位観た。
重信川の堤防が左右に広がり、トラクターがゆっくり動いて、空の青と緑に彩られて、そこだけみたらまるで北海道みたいな光景だった。
いいとこに住んでるよなあ、おれたち、とか思った。
歩きながら、日頃はパーソナルなことまでは突っ込まない患者さんとの素の会話もしたしね。
 
当院の栄養士さんの献立で作った弁当を食べるために、歩いて疲れて、それで美味しくいただいて、ちょっとだけ勉強するというコンセプトに基づいて始めたような気もするけど、あまり覚えていない。
まあ昔は元気で威勢だけは良かったんだろうね。
それでもいろんな患者さんが少なからず参加してくださって、今年も無事3キロ(往復6キロで去年よりも長い)ぐらい歩くことができた。
 
まさに継続は力なり。
 
少し早い昼。
外は暑かったけど、公園の木陰にビニールシートを敷いていただいた弁当は格別だった。
新緑と、軽やかな風と、少しの汗と、たわいもない会話と。
少しならいいよと言っておいたら、案の定、お一人は「越乃寒梅」持ってこられてました。あはは。
「まあええが」と薦められたけど、午後からクルマのらんといかんので、と、丁重にお断りしましたよ。
飲めたらそれはそれで格別だったのになあ。
今回は午後から納骨式があるので早めに退席したが、みんな無事に歩いて帰れただろうか?
 
栄養士さんが計画を立て、透析室のスタッフがいろいろ準備をしてくれて弁当の仕切りもしてくれて、
自分はほんとに参加するだけなんだけど、
どんどんすばらしいチームワークができあがってきており、これは誇れることだと思っている。
偉そうに言うと、親がいなくても子供はすくすくと成長するっていうことかな。
 
おつかれ。

#439 電子カルテもいよいよmajor ver.upする。

 
今日無理やりねじ込んでの会議。
 
院内無線LAN計画とは関係なく、電子カルテのメジャーverupのキックオフ・ミーティング。
これから、またバタバタの日が続く。GOは7月末。
今後は、クラウドにデータを上げたり、ネットの海からデータを吸い取って提示するAI機能なんてものが、電カルにほんとに実装されたりして。
 
大きな病院だけだと思うことが、どんどん下まで降りてくる。
そんな便利な世の中になっても、達成感がないのが今の世の中の特徴なんだろう。
そしてそんな装備をしたりクラークを置いたりしても診療報酬に反映なんてされもしない。
電カルに限らず、まだまだ、次があるんじゃないのか、そう思いつつ、老いてゆく実感もないまま老いてゆく。
時間に取り残されて、時間を追いかけて、ため息をつく。
 
キリがない。
キリがないからどこかで、自分の可能性に見切りをつけて線を引くという努力も大事だと思う。
 
ジャニーズをやめるというあの男の子のこともよくは知らないが、
自分の現役人生の半分なので、あとは自分の音楽を追求してゆくのだ、なんて内容の発言にはちょっと感動した。
人生が無限だと思ってみんな踊り続けている。
スポットライトを浴びてくるくる廻るのもいい。こっちの水は甘いよ。
自分で終幕を引く準備も考えながら踊ってくことも時には必要だ。
あっちの水がからいとしても。
 
今回手に入れたのは「Staub」のブレイザーという大きな鍋。
でっかいすき焼き鍋に重い「Staub」蓋がついていると思ってもらえたらいい。
しんどいので、
肉と、冷蔵庫の中のネギとナスとトマトとブロッコリーで、なんとなくすき焼き風にしてみんなで突っつく。
そんなうちごはん。

#438 診断書を書く。なにかを思い出す。なにかを忘れる。繰り返す。ただ繰り返す。聡明でもなく、愚かしさでもなく。

 
患者さんが亡くなられる。
 
ご臨終を告げ、処置させていただいて、マジマジと患者さんの顔を見る。
迎えが来るまでの間に死亡診断書を記入する。
その際にカルテをくって(電子カルテなのでスクロースだけど)、その方の現在に至るまでの状況を思い出す。
反芻するって方がふさわしいかな。
お見送りをする。
深くお辞儀をする。スタッフにお疲れ様という。
 
なかなか忘れそうで忘れられない。でも忘れている。いつの間にか記憶の奥深くに埋没してしまっている。
そんなときに、忘れた頃に、また保険会社の「診断書」の依頼が来る。
ボールペンで記入しながらまた反芻する。
そんな今日。
 
中島みゆき姉御の、忘れられない歌を突然聞く、というあれだね。
この歌の趣旨とはちょっと違うけど、
書類を書いてると、ホントに不意打ちされたようにいろんなものが突然頭の中に湧いてきて、
湧いてきはじめるとそれはとめどもなく、そんな時はほんとに身のやり場に困ってしまうんだよ。
 
死んでしまったはずのあの人はもうこの世にいない。
消滅てしまって魂なんてないはずなのに、でもその人が今もどこかをさまよい続けてる、そんな空想に苛まれるんだよ。
診断書を書いている刹那に、その人以外の今まで色々通り過ぎていった人たちも、自分の前をまた通り過ぎていくんだ。
まあ、自分だけではなく、みんなが同じような感慨を抱きながら、仕事してるんでしょうねえ。
聡明でもなく、愚かしさでもなく。ただそんな営為の中に人は生きているのだと思う。