だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#437 映画「坂道のアポロン」(2108)

坂道のアポロン BONUS TRACK(10) (フラワーコミックスα)

 
リアル映画館に行ったのはどの位ぶりだろう。
 
STARWARSさえ見逃したというのに、この映画はリアルで観たかったんだ。
小玉ユキ原作のコミックの映画化で、最近はそんなんばっかみたいだけど、ツボはきっちり押さえられてた。
 
1966年という時代設定でしかJAZZが成り立たないのは仕方ないかなあ。
 
自分たちより更に上の青春。
 
1970年、作家の三島由紀夫自衛隊の駐屯地で割腹自決した。
その頃自分は附属小学校の学生だった。
小学校の校庭で大学生がなんだか決起集会をしてた。
教育学部附属の小学校だったので、教育学部の実習の学生さんが入れ替わり訪れた。
特に女の学生さんに対して、思春期の前期の自分は憧れたものだった。
そんな中のお気に入りの彼女は、太宰とか三島の話をやはりしていた。
いつかキミもおとなになるのよ、とか、遠い視線でタバコをふかしてた。
わかりもしないのに気が引きたい自分は頷いていた。
桃井かおりはもうちょっとあとだったと思うんだけどまあそんな感じかな。)
大学医学部に講師として勤務していたうちの親父は、そんな学生運動を一言で切り捨てた。
くだらん、と。
あの日々の狂騒感は自分にはもうさかのぼったとしても理解することはできない。
そんな時代に寄り添ってJAZZはあったのだろうか?
自分が天地真理にのぼせてたあの頃に?
 
でも青春というのは、誰かさんが言われてたように心の状態を表す言葉でもある。
この自分でさえまだまだ足りないと思うもんね、passionってやつが。
だからいつも「青春」に関しては「まだ遅くはない」って思うんだ。
 
どんなに歳くっても、心を飼いならしてはいけない。
 
教会、ドラム、piano、学園祭、学生運動、JAZZ、恋愛、海。
いろんな青春を示すアイテムがキラキラ配置されてるのに、最後はオーソドックスかつピタッとピースにハマってゆく。
 
この瞬間が好きなんだよ、って、そう言えることをもっともっと増やしていかんといかんのですよね。
しんどくっても、うちのめされてもね。
 
でもリアル映画館での上映は、この町では1日たったの1回で、
自分たちが剣を購入したときには完全な空席で、自分たちのあとで入ってきたお客さんもたったの一人という低調ぶり。
 
これって、なんなんだろうね?

#436 知恩院の納骨堂で木魚を叩く。fiddleで「月の砂漠」を弾く。等価なんだよ。

 
名前だけは知ってたけど、はじめていった(日本全国そんなところばっかよ)「知恩院」、
「なんまいだぶ」浄土宗・法然上人の寺だった。
例の、みんな念仏を唱えさえすれば往生できるというものだ。
 
ちょうど見物してたときに、何組かのご供養をされていて、最後にお坊さんが「南無阿弥陀仏」を10回ご唱和くださいと行って、その場にいたヒトも自然な形で追従していた。
これが日本という国なのだ、と、感心したのは、
歩き疲れた足をさすりながら、無宗教の自分さえもが畳の上に足を投げ出したまま合掌してとなえていたからでもあった。
この世は地獄だから、あの世に西方浄土を求めるという考え方には、でも承服できずにいる。
だからいつまでたっても、仏事の中では居心地悪いままの自分だ。
 
死んでから49日旅をして、やっと「仏」になるという。
自分のvisionでは、その旅路は、法衣をまとった「故人」が、ラクダにまたがって「月の砂漠」をしずしずと薄明かりに導かれてどこまでも進んでゆくというものだった。
拙すぎるvisionではあるけれど。まったくねー。
 
だから、3月最後のviolin(fiddle)のセッションでも、相棒のAkikoにお願いして、「月の砂漠」をアレンジして弾いた。
ブレーメンの音楽隊」みたいにせめてものにぎやかしでね。
その場の誰も知らなかったけど、これがおれの鎮魂歌なんだとそう思いながら弾いた。
 
知恩院の見物の最後の当たり、
階段の上に開かれたお堂があって、そこに木魚がいくつも置かれていて、自由に叩いていい感じだった。
一人が叩くと、やがて他の子供達もならってくれて、幾つもの音階の違う木魚の音が、調べになって、それは南無阿弥陀仏にも聴こえてきた。
 
自分は特定の「宗教のコトバとか戒律」とか、持ちはしない。
だけど、知恩院の納骨堂に置かれた「木魚」を無心に8ビートで叩き続けて、目を閉じて片方の手を合わせたときに、
なんだか、月の砂漠を行く「故人」の姿を、遠くから優しい目で見守れたような気が、一瞬だけしたんだ。
 

#435 Netprintで出力してみました。

 
なにもないところから何かが生まれる。
それを自分の手で描いて、誕生に出会えるところが、「お絵描き」の醍醐味でもあります。
最近またちょこちょこiPadで描いとりますが、
性格からか、何日も費やすのはとても無理なので、せいぜい40分位で完成です。
 
まあ、デッサン力もないので、
一応デジタルの場合は、最初は写真とか見ながらスケッチするのですが、結局はパースも狂って、いつもの自分のタッチに直してしまいます。
まあ、それでも、どこかからsomethingが湧き出てくるのでよしよしです。
 
急に暖かくなって、桜がほころび始めるどころか、咲きまくってくる感じですね。
何年か前、
開花が早すぎて断念した「吉野山」の桜に、今年また挑戦する予定が、
この陽気ではまた涙をのむことになるかもです。
 
春は、そんなこんなで特別な季節です(それを言うなら毎日が特別な一日かもですが^^;)。
それでかどうか、こんなスケッチが二日酔いの脳みその何処かから生まれてきました。
 
デジタルはデジタルなんですが、
今回初の試みで、プリントアウトしてみました。
 
普通の紙ではなく、写真のLプリントでもなく、少し厚めの紙に印刷したいと思って、いろいろしらべました。
まず、手軽に予約して、セブンイレブンでプリントアウトできる「Netprint」で、ハガキ大に印刷です。
はがきの用紙だけがしっかりした厚みを持ってるようでしたので。
色の再現性も自分なりには満足です。
 
昨日「えひめ排泄ケア」の仕事で出かけた新居浜セブンイレブンで出力してきましたよ。
 
デジタルの画面で見るのもいいですが、手元で紙媒体で手にとるのはやっぱりなんだか格別でした。

#434 巨人に喰われるという死に方

「巨人 食う」の画像検索結果

進撃の巨人」のアニメをiPadで見る。
 

巨人の謎だとか、人類の生命線をかけた攻防とかよりも、

どんなに頑張って超人的な調査兵団に属しても、
一瞬で巨人に食べられてしまうという驚愕の事実。
 
それくらい恐ろしいものはない。
 
どんな崇高な信念も、鍛え上げられた鋼の肉体も、一瞬で無に帰してしまう。
それも意識のある状態で、巨人の口の中に入れられて食べられちゃうという恐怖。
 
それを思うだけでぞっとする。
 
生きてりゃ
恥にまみれ、膿もヘドロも吐き通すこともあるだろう。
生きてりゃ、
いいこともあるし、例えようもない哀しみにちぎれることもある。
 
でも結論としておれは生きてる。
 
でも、でも、そんなこんなとりあえず「生きてる」を飛び越して、
ただただ無念を叫ぶこともなく巨人に喰われちまうのである。
 
それでThe END.
 
オレの人生も、チェット・ベーカーの歌みたいに
「born to be blue」かもしんない。
それでもまだ生きてる。
 
だからこう思うことにした。
生きてっるって、最低生きてるって、それだけでも唯一かつ十分な矜持だって。

#433 しんすけsきっちん「ハヤシライス」めしあがれ〜♫

 
好きなことだけしていたい。
そのために、もっと時間をさきたい。
自分の仕事は、自分が選んでしてるものだから、決して嫌なことではない。
仕事が嫌いなわけじゃないんだ。
 
でもそのcoreにたどり着くためには、
周辺部に実はどうでもいいようなことはいっぱいあるし、したくない事柄だってたくさんある。
それはどの分野でもおんなじだろう。
でも、そのcoreにたどり着くまでの、しょうもない用事ごときで疲れ果てて倒れるのなら、
それは本末転倒ってもんだろう。
 
どうすりゃいい?
 
昔は、歯を食いしばれみたいな精神論をさんざん叩き込まれた。
嫌なことも無駄ではない、誰かの役に立つんだ。
先生、あんたたちも弱い人間だったんだね。
おかげさまでなのか、おれの中にも、精神論やら滅私奉公の灯は消えずにくすぶり続けてることも事実だ。
そうかもしんないね。
でも、人生は限りある。
限りある人生を一瞬でも無駄にはしたくないんだ。
 
突如降ってわいた介護保険の補欠の仕事を泣きながらしてます。
明日のために30例の予習をね。
 
日曜から作ってたごはんを昨日はいただいときました。
 
珍しく「ハヤシライス」でしたよ。
 
最初はにんじんゴロゴロカレーを考えていたのだけど、たまには趣向を変えてみたのです。
トマトをふんだんに使ったというルーが売り場に置いてあったので購入したのがきっかけだけど、これが甘いんだわ。
何度も味見してやっぱり「甘ぁ〜い」ので、最後にコーレグース(沖縄の調味料、あのとんがらしが液体の中で揺れてるやつ)で調整しちゃいました。
さつまいも、りんご、みかん、にんじん、たまねぎ、豚肉。
ホントは牛肉とたまねぎがベースなのが「ハヤシライス」らしいけど、甘いカレー的なものの総称がハヤシライスってことにしときませんか。
なるほど、入れた具材も甘めでしたね。ちゃんちゃん。
 
そうそう、DJみそしるさんみたいに、軽やかに作りたいもんだねえ。
 

#432 ♬「リベルタンゴ」と「Fly me to the moon」をやるよ。

 
素敵な人達、大事な人達、大切な人たち。
みんなみんな大好きな人達、そんな人と会いたい。
いや、会ってるよなあ。
 
満月を見たのは病院の帰りだったような気がする。
遠い遠い昔のような気がするのに、つい数日前のことなのかな。もう日が暮れようとしてますね。
 
今日もぐったりしてやっと帰ってきましたよ。北条のピアノのI先生の所に練習に行ってました。
誘っていただいて先生の教室のコンサートにゲストで出演させてもらえることになりました。
むちゃくちゃ嬉しいけどむちゃくちゃ緊張で、今日の日を迎えました。
でも昨日もたらふく食って飲んでグチュグチュになってるんですけどね^^;
先生のお宅で2時間ぐらい練習して、なんとか光が見えてきました。あとは自己練習あるのみですね。
I先生との出会いも、ふるぴーさんの会社の10周年パーティーで、
二人でお祝いに、「赤いスイトピー」をバイオリンとエレピでやったことから関係が始まったので、それも言うなれば本当に素晴らしい出会いです。
1回限りっていうことはよくあることですけど、それが長続きして、そしてまた二人新しいことがやれる(ほんとは胸を貸して頂いてるだけなんですけどね)なんて、ホント素敵です。
こないだは手を抜かないことが一番大事だとblogに書きましたけど、
出会いと冒険を恐れないことも大事ですよね。
たぶん自分に蓋をするのはほかならぬ自分ですからね。
 

#431 だから今日も明日も明後日も、 我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。,at 2018/02/24,night.

えらく、あいだが空いたけど前回の続きの話です。長いです。

 
愛媛大学泌尿器科には5年くらい在籍した。
30代の中盤をそこで費やしたことになる。まあいろいろあった。
医者というのはチーム医療のようであり、個人的でもあるのだなあと、今になって思い返す。
 
まあ、ほんといろいろあったよな。しみじみ。
 
今は、「自分の病院」ということで、病院という「チーム」で物事にたちむかっているので、昔よりももっと「塊でことに接している感」は増している気もする。
でも、振り向くと後ろには誰もいない感じも、常に同時にある。
ほんと併存してるんだ。
だから、自分を、自分を信じられる「自分」を作るために日夜努力はしているつもりだ。
 
それは簡単に言うと決して手を抜かないということだ。
当たり前みたいだけど、何事に関しても、「まあいいや」と思った瞬間から没落ははじまるのだから。
それと病気で休まないことかな。
決して精神的にタフなわけではないので(皆さんは嘘ぉと思われるかもしれないけど)、悩みは多々ある。
でも生死に比べたらそんなもんは取るにたらぬことだ、そう思うことにしている。
 
まあ、たとえおれがこの世から消えたとしても、その事自体も瑣末でしかないのだけどね。
 
なんか話がずれてゆくので元に戻すと、
愛媛大学の5年間でそれなりに医者としても進歩した。
(そりゃそうだよね)
 
泌尿器科って実は「外科」なので、やはり大学病院っていう基幹病院ということもあって、いろいろな手術もさせてもらった。
腹腔鏡手術の黎明期で、静岡に研修にも連れてってもらったなあ。
 
でも、やっぱりそれらは、「大学病院」とか「医局」という「場」に守られた医療だったのだ。
それを開業してから嫌というほど思い知らされる。
「親方日の丸」という言葉があるが、
自分個人が医者としてその頃信じていた「資質」は、実は「愛媛大学に属する医師」としての「資質」でしかなかったのだ。
技術とか能力と、それはまた別の次元において。
開業して「一人の医者」として診療をはじめて、いろんなことに気づいて、うちのめされて、
それで、ややタフになって、自分でイチから作り上げてきたものどもを思うと、感慨深い。
だから開業して、気づいたという点では、開業はプラスだったのだと思う。
こればかりは開業したヒトにしかわからないことですけどねえ。
 
大学勤務だから、教授に言われて(自主的ではありませんでしたねえ残念ながら^^;)研究もした。
バイトとか日常業務とか、手術とかに追われた中で、色んな人の助けを借りたり、論文を図書館で探したり(その頃はまだインターネットの黎明期だった)したなあ。
実験に使われたネズミさんたちにも感謝。
実験の方法を教えてくれた元同級生のS先生にも感謝。
自分の拙いアイデアに具体性を加えてくれた基礎の先生方や、的確なアドバイスをくれた教授にももちろん感謝だ。
 
結論から言うと、執念で「博士号」もとった。
実験だけでなんとなく終わる人も周りにたくさんいた。
自分は開業を決めて、大学を出て、日赤で2年弱の腎臓内科の研修をしながら、その間に英語で論文を書いて、
何回も外国とやり取りをして、やっと採用されたのだった。
アクセプトっていうのだ。
英語でacceptの知らせが来たときには(やはりネットではなく手紙のやり取りだった)、やったねという感じだった。
そして、開業してから審査を受けて、博士号をもらった。
長い年月だった。まさに執念だね。
だから、病院に展示されている「乙種博士」という紙切れが素晴らしいのでは決してない。
それにかけた努力とか執念が、自分の矜持になっている、そのことが素晴らしいのだ。
 
そう思う。
 

 
なんでこんな話になったかというと、
先日の夜の続きになるけど、
アマンダさんと入れ替わりの感じで、かわゆい女の子が二人やってこられたのだった。
あいにくカウンターに空きがなかったので、彼女たちは2Fに上がっていったのだけど、
アマンダさんが帰って、下の席が空いて、彼女たちが降りてきたのだった。
いろいろ話しているうちに、お母さんが大学の泌尿器科に勤められてた、という話になった。
 
で、彼女の名前をかんがみるに、
「ああ、S子さんだぁ!」ってなったのだった。
 
大学の泌尿器科の医局には常勤の秘書さんがひとりはいらした。
自分はその夜、われわれのお母さんみたいに接してくださったS子さんの、まさにお嬢さんと飲んでたのだ。
びっくり。どっきり。わくわく。
なんか胸が熱くなってきたよ。
自分にとっては、一時期ではあるが、
同じ職場と空間と時間をともにしたS子さんの素敵なお嬢さんの日常の片鱗も伺うことができて、
その横のクラスのマドンナの方の絵も描かせていただき、
われわれおっさん二人は天にも昇る気持ちになったのだった。
 
でもこんなことってあるんだね。
 
もしかしたら、今までもそうやって色んな場所で、巡り合うべき必然の方と何気なくすれ違ってるのかもしれないね。
ホント人生って面白いね。
 
だから今日も明日も明後日も、
我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。