だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#396 Faraway home 「京都」~坊主BAR~(2017/10/7-10/8)

 
京都といえば、大学浪人の時に2年間を過ごした街なので、少なからず愛着を抱いている。
でも、その時の京都からもう長年経ったわけで、今、観光で訪れている京都は全く別の街だと考えるのが正しいのだろう。
自分の京都に対する浅はかな知識とか、その時の空気の質感とかは、それはもはや己の中だけの幻の京都といった方が分かりやすいのかもしれない。
 
つかず離れず京都に出かけるわけだけど、外人が多かったり観光客が多いのは辟易する。
自分も観光客であり、通り過ぎてく人の一部のくせに、わがままなもんだね。
秋の紅葉を見に行った時なんか、宿がいっぱいで京都には泊まることすらできなかった。寺でも身動きできぬ状態で紅葉を眺めたものだ。
 
今回の宿は四条烏丸の辺りだった。ここも外人多かったわ。
風呂は大浴場あったのだけど、22時位にかなりの野郎ども。女風呂も同様だったらしい。
 
宿の案内をHPで見ていると、近くに「坊主Bar」というのがのっていた。
 
以前、松山道後の伊佐爾波神社の近くの「MAMMA」で鍋焼きうどんを食べた時、東温の方の住職さんとたまたまご一緒して話す機会があった。
彼が坊主の寄り合いで京都に行った時、坊主バーに行ったという話を聞いたのだった。その時には、巫女さんバーというのもあったんだとか、今はないとかそんな話もあった。それも頭の片隅に残っていてので、行かんといかんと思いチェックしていたのだった。
 
居酒屋で飯を食って、探し当ててたどり着いたのは、普通の住宅街の一角だった。
周りの風景に溶け込む形で坊主バーはあったけど、お客さんはいっぱいだった。電話をかけて3人のテーブル席を頼んでおいてよかったと思った。
 
自分のイメージでは、カウンターだけの薄暗い店で、カウンターで細々と坊さん相手に人生相談したり説法してもらうのかと思ったけど、まったくそんなことはなく、おしゃれな店内で、彼(店主=僧侶=坊主)は淡々と酒を作ってシェイカーを振っており、女性の助手が2人作務衣の様なものを着て接待していた。お酒の品揃えもかなり豊富で、これはこれはただものではない感じ。
 
我々は机の上に置かれた仏教楽器の「鈴(りん)」を鳴らして、注文を取りに来た女性にアレヤコレヤ尋ね、
イチローモルトを頼み(品揃え豊富でしたよ)、チーズの盛り合わせを頼んだ。
コースターの真ん中に観音様とか仏様の絵がちょこんと書かれているのが面白かった。
 
ちょこちょことだけど、店主と話すこともできた。
 
「大変でしょう」と言うと、本業が暇なのでそうでもないです、と言われていた。
次にはイチローモルトの話になり、このお酒こんなに人気が出ちゃってなかなか手に入れるのが大変なんですよ、と言う話を、嬉しそうにされているのを見て、この方は本当にお酒が好きなんだなと思い、なんだか嬉しくなった。
その後は山ぶどうのチーズの手に入れ方も教えてもらったりと、坊主である前に人間であり、人間としてあってその先の僧侶という、まあ初対面なのでそのあたりまでの感想だけど、なかなか味わい深い店のように見受けられた。
奥の団体客が帰る時には、コースターにサインをねだられていた。
彼の一挙手一投足がとても自然な所作であることにはやはり感嘆の念を抱いたりした。自然体なのだ。
そして我々がチェックして表に出ると、たまたまだけど待っていたお客さんを呼ぶために出てきた彼が「今はbusyなんですよね」と言いながらも、写真を一緒に撮らせてくれたのだった。
これまた、その写真をとてくださったのが通りがかりの女性という妙味。
なんだかおもしろい夜です。京都。
 
彼が帰り際にくれたToday’s Message(京都坊主BARの書庫だより)より
 
 
あらゆるものは別々のように見えても、その背後には全体である、統一された場が存在しています。この場では、観察されるものと観察するものが一体になっています。
 人を愛したり、星をじっと見つめたり、浜辺を歩いたり、音楽に耳を傾けたり、踊ったり、詩を読んだり、祈ったり、瞑想で沈黙したりしている瞬間、私たちは統一意識を味わっています 。
 意識が統一されていた瞬間、時間と言う障害はさっと取り除かれ、永遠という遊び場の中に入っていくことができます。この場所にたどり着いた瞬間、人はふとこんな言葉を漏らすものです 。
 「この山は息をのむほど美しい。時間が止まってしまったようだ」
 
【「富と宇宙とこことの法則」より】

 

 
悟りにはまだ程遠い自分だけど、山を見て、湖を見て、滂沱の涙を流せるうちは捨てたもんでもないのかもしれないな。
見ている自分も、世界から見られており、その見ている自分も見られている自分も宇宙の中の構成要素であるという奇跡。
だが、実際のシーンでは、バイオリンのplay失敗して不協和音奏でるばかりか、迷走してしまって、
その時世界は自分の手の中から非情にも逃げていってしまって、帰ってきてくれないんだけどね。