だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#179 「井戸を掘るということ」ー「村上春樹、河合隼雄に会いにゆく」を読む。 

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

1Q84」からこのかた、村上春樹氏の小説を読み続けている。

今回は小説ではないんだけど、「村上春樹河合隼雄に会いに行く」という1995年の対談集を3日かけて読み終えた。昔も読んでるんだけどね。有名なデタッチメントとコミットメントに関するあたりの対談集で、「ねじまき鳥クロニクル」が書かれた後しばらくして行われたという背景だ。

この対談集を読むと、自分のことだけど、いたずらに歳だけは取ってるのに脳みそは成長していないってことがよくわかる。果たして、人生とか社会にちゃんと向かい合ってきたのかなおいらは?

お二人の、非常にハイレベルの会話はすばらしい。そして人生のヒントに満ちている。各人はそれぞれの責任において、自分の物語を作らなければならないのだということ、そして村上春樹氏も自分の中の深い井戸に降りてゆき、自分の物語を書き、それがなおかつ開かれた物であることを目指しているという、今に至るまでの変わらないスタンスが、もうこの時点で確立されつつあり、なおかつ、今の村上春樹氏を見ているとさらなる高みを目指そうとしていることが伺えて、なんだかこれまた泣けてくる。

 

河合

人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物を知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない。それはある意味では病んでいるのですね。(略)

現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の「生きる」可能性が急に拡大されたからですね。その中で死について考えるというのは大変だったのですが、この頃科学・技術の発展に乗っていても、人間はそう幸福になるわけではないことが実感されてきました。

 

 

我々は生まれた時から確かに病んでいるのだと思う。そして、物語は自分のサイズでしか生まれない。誰かからのお仕着せの世界観でこの世を彷徨うゴーストのように生きるのもいいかもしれない。いろんなアイデアやら世界観はアニメやら映画の中に幾百万と転がってるからね。そいつに乗っかり続けることができればそれもよろし。でも、最終的には、もがきながらも、自分の物語を構築行くことでしか、きっと赦しは訪れないのだと思う。

 

もう一つ面白かったのが、夫婦間家についての河合先生の言及ー考えさせられます。

 

河合

愛しあっている2人が結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかと言ったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのが僕の結論なのです。井戸掘りは大変なことです。だから、べつにしなくてもいいのじゃないかと思ったりするんですよ。(略)

 

昔の夫婦というのは、ただいろいろのことを協力してやって、それが終わって死んでいって、それはそれでめでたしだったんですね。今は協力だけではなくて、理解したいということになってきている。理解しようと思ったら、井戸掘りするしかしょうがないですね。(略)

 

西欧の場合は、どうしてもロマンチックラブというのを下敷きにしいていますね。ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。もしロマンチック・ラブを長続きさせようとおもったら、性的関係をもってはならないんです。性的関係を持ちながらロマンチック・ラブの考えを継続させよらうというのは、不可能なんだとぼくは思うんです。もし夫婦の関係を続けて行こうと思ったら、違う次元に入っていかないとだめですね。