#535 ぎっくり腰その他と、レイモンド・カーヴァーと、愛について。
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昨日からぎっくり腰(多分)で、大変な状態になっている。
左肩からは千切れそうで、腱板断裂ですねえとのんびりと整形の先生に宣告されたし、
右手の母指と人差し指の間の手術跡は固くなって、箸持つときとかえらく不自由だし、
気分はすっかり老人である。
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今朝の回診で、
「今日は何でか車が少なかったなあ」
「それは休日だからですよ」
「なんの休日なんかな、勤労感謝の日かな?」
「いや勤労感謝の日はもっと遅いような気がします・・10月だから体育の日じゃないでしょうか?」
「敬老の日かな?」
「いや敬老の日はもう終わったと思うんですけど、ほらね、そうやって日々の感覚がなくなっていくんですからね
頼みますよ ボケの始まりですから それ」
そんな会話をしながら仕事をしておりました。全てはうつろふ。
愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)
- 作者: レイモンドカーヴァー,Raymond Carver,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/07/01
- メディア: 新書
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なぜか愛媛新聞の子供版「ジュニアえひめ新聞」(2019/10/06)にレイモンドカーヴァーの著書の書評が載っていた。
タイトルは「愛について語るとき我々の語ること」というもので、やはり村上春樹さんの翻訳だ。
カーヴァーももう死んでこの世にいない。
僕は、ブコワスキーとはまるで手触りが違うが、根幹の通低音は等しいあのひんやりとした感触も、自分のなかにあるものとして、心に、楔のように打ち込まれているのを感じる。
なのに何かを思い出そうとすると全ては霧の中にいるようで、彼らの言葉は具体的には思いだせないんだけど、でも、彼らのが存在したこと・彼らの語ったこと・彼らの遺した文章、それらは自分の殻を作っているんだと思う。
結局、それは生きていて同じ時代に同じ時間を過ごしてあの世に行ってしまった者たち全てに共通するものなんだろう。
だから自分が消えてしまえばその関係性は消える。
逆に言うと、自分が生きている間は、相手が死のうが生きようがその関係性は消えないのだと、自分はそんなふうに思う。
さてレイモンドカーヴァーさんの本は多分2冊ぐらい持っていたと思う。
やはり彼のことを教えてくれたのは村上春樹さんだった。
この書評では、
表題作の「愛について語るときに我々の語ること」 、そして「風呂」という短編の話 、「出かけるって女たちに言ってくるよ」、「 ガゼボ」と結構多くの短編について触れられている。
「人が道を踏み外す瞬間を作家は冷静に見つめる。喪失と悲しみを刻印する。」と結ぶ。
ジュニア愛媛新聞にこれを書いたのは一体誰なんだろう?
この異質の書評は、だけど自分に思いがけずカーヴァーを思い出させてくれた。
記者である、彼あるいは彼女に感謝する次第である。
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酔っ払った時に隣の女の子と仲良くなって、話が盛り上がって、それで絵をかこうかっていう話になって実際描かせてもらう。
その最中にもまた盛り上がって、なんだか素敵で濃密な時間が流れる。
帰って一夜明けてみるとその詳細が思い出せない。
あの空気はどこに行ったんだろうかとか頭痛の中で思う。
そんな時、自分で撮った彼女と絵の写真を見る。すると一瞬だけあの空気と音が蘇ってくるような気がする。
でもそれってもともと再生不可能なことなのかもしれない。
カーヴァーの「Why dont't you dance?」のラスト、
庭のガレージセールで男に家具一式とかレコードまでっもらった女の子がこんなふうに語る。
でもどれだけしゃべっても、相手に伝えられない何かが残った。彼女はなんとかそれをうまく表現しようと、しばらくの間試みていたが、結局はあきらめることになった。
そういうことだ。