だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#401 2017/11/05,16:45,okayama.

鳥取から、岡山に向かって、ハイウェイを走っていた。
家族旅行の帰り道。少々眠たい。
これから瀬戸内海を越えて、自宅のある愛媛まで帰る。旅の途上だ。
高速は旅人にとってただ通り過ぎるための道でしかない。
 
でも、ふと思った。
 
もうこの(岡山の)街には自分の親父はいないんだね。
あの家のあの場所にはもう親父は座ってないんだね。
自分が18歳まで住んだ街が岡山だ。
20歳の時、愛媛県にやってきて、もうそこで36年を過ごした。
だからといって愛媛県が故郷なのかどうかはわからない。でもそこで暮らして働いて、自分の居場所はたくさんできた。
医者という仕事柄、特に開業してからはお盆も正月もなかった。
だから自分の中には帰省という概念はない。ないまま、両親ともいなくなったがそのことに関する後悔は微塵もない。
 
50過ぎてからだ。やっと少しだけ自分のことができるようになったのは。
一泊二日の旅行まではなんとかできるようになった。
父親は「息子よ、優雅にまあやれや」といつも言っていた。
彼の人生が優雅だったのかどうかはわからない。
でもね、優雅でうらやましいとか、まわりからは言ってもらえてるよ。あなたもきっとそう言われたであろうくらいにはね。
でも、自分ではまだまだだと思ってますけどね。あはは。
でも、あなたに、即物的なこと以外のものが内包している、よりよく生きるすべはたくさん教えてもらったような気がしてます。
 
その父親はこの春に自宅で急逝した。
おふくろはその十数年前に膵臓がんで見つかってからわずか3ヶ月で死んだ。
親父とおふくろだけの墓は実家の近くにある。
仏事も何もないし、自分もことさらその場所に訪れる気もない。
 
人の死とはなんなのかと考えることは、生を考えることでもある。
自分の人生は何かと考え、実は「主体」としての生と考えていたのは、実は「生かされている」方の生なのではないかとも最近思ったりした。
そして「生かされた」人生なら、その中で目いっぱいの「主体」として生きることが、「生かされた」もののつとめではないのかと。
 
死んで墓が残るのか?死んで墓になるのか?死んで戒名になるのか?残せるものがあるのが人生か?残せるものなんてこの世にあるのか?それは金か土地か?名声か?誰かの言う社会性か?
そんなくだらないことを思う間もなく日々は過ぎてゆく。それもまた真実。うまいもん喰って酒をあおって寝て、ある日はラッパを鳴らし、ある日は蟋蟀のごとく下手くそな弦楽器を奏でてみる。
Days.日々がおれを嗤い、蔑み、日々がまたおれを助けてくれる。
 
だけど、ふっと肩の力が抜けて、頭の中の空気が薄まって、走るクルマの外の空気の流れを感じて、たまたま今はこの世の中にはいない親父のことを思い出す、なんてぇのもありかな。
まあそんな感じ。
過ぎてゆく風のように、全ては流れていくだけ。
それだけでもいいよね。
 
 
 
随筆家の若松英輔さんがこんな風に書いていた。
 

「感じたこと」を語るようにしています。考えは変わるし、思いは移ろいやすいけれど、感じたことは生きて得たものだから、確か。ワインのように時間とともに深まっていく。

 

朝日新聞be フロントランナー 2017/11/05)