おれは何を恐れているのだろう。いや恐れているのでも怯えているのでもない。 無を知りすぎているのだ。すべては無で人間もまた無だった。 ただそれだけの話だし、それに照明がとても必要なのだ。 それから清潔さと秩序が。ある者はその中で生きられる。 けど気づくことはない。しかしおれは知っている。 全ては無でありナダ(無)ナダとナダゆえにそしてナダゆえに。 ナダにまします我らがナダよ、 ナダこそ御身の名にして御身のナダなる王国、 御身はナダにあるがごとくナダにましませり。 我らに日々のナダを与えたまえ、我らを我らのナダにしたまえ。 我らが我らのナダをナダにするがごとく。 しかして我らをナダにしたもうなかれ。ただナダより救いたまえ。 ナダゆえに。無に満ちた無を褒め称えよ。無は御身とともにある。 銀色に光るコーヒーマシンがあるカウンターの前にかれは笑みを浮 かべて立った。
西崎さんの「飛行士と東京の雨の森」 という中短篇集を読んでから、彼の訳のこの短篇集を、 ゆっくりと読み進めている。
この中には例の「キリマンジャロの雪」とかも掲載されている。
一編一編がヘビーで、立ち止まるので遅々として進まない。
この短編でここ数日はフリーズしているのだが・・。
上述したのは、ご存知「清潔で明るい場所」の有名なナダ(無) に関するくだりだ。
老人は絶望してロープで首をくくりながら死ねずに、今夜も、 清潔で明るく、 そして葉陰もあるカフェでブランデーを飲んでいる。 ウエイターたちは、仕事の終業時間について語っている。 時間は夜中の二時半前。早く店を閉めようという、 若いウエイターに年配のウエイター言う。 お前はいつもより早く家に帰ることが怖くないのか? 若い方は言う、おれを侮辱しようって言うつもりか、 おれは確信だらけだなのだと。でも、 あんたはおれの持ってるものを全部持ってるじゃないか、とも。 年配のウエイターはこう答える。 おれには仕事以外の全部がかけているのだ。そして続ける、 おれは夜遅くまでカフェにいたい方の人間なんだ、と。
そして、彼らは店を閉めて、バーのカウンターに立ち、 シェリーを注文する。起きるために眠るのか、 結果として眠ったから覚醒が来るのか。 でも彼は結局は自分のねぐらに帰ってベッドに横たわるのだろう。
うちの犬はずいぶん元気になってきた。
彼の生とおれの生とを比べたら、 多分彼のほうが先に逝っちまうんだと思う。
まあ、それだけの話しではない。 医者という職業柄もあって普通の人よりは死に接する機会が多い方 ではあると思う。
でも死だけが無(ナダ)なのでは決してないということ。
おれの無(ナダ)をおれは何度も目の当たりにしてきたし、 それをこれからも、見て・舐めて・ 味わってしか生きていけないんだろうと思う。
だからもともと意味なんてないのかもしれない。この人生にも、 この時間にも。生きるために食らうのか、 生きるために排泄するのか、結果があって起点があるのか、 起点があって終結があるのか、全てはナダゆえに。 だから笑おうとも泣こうとも思うんだよ。
いま、まさにそんな朝に、光が注いでいる。
ご参考までに