だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#434 巨人に喰われるという死に方

「巨人 食う」の画像検索結果

進撃の巨人」のアニメをiPadで見る。
 

巨人の謎だとか、人類の生命線をかけた攻防とかよりも、

どんなに頑張って超人的な調査兵団に属しても、
一瞬で巨人に食べられてしまうという驚愕の事実。
 
それくらい恐ろしいものはない。
 
どんな崇高な信念も、鍛え上げられた鋼の肉体も、一瞬で無に帰してしまう。
それも意識のある状態で、巨人の口の中に入れられて食べられちゃうという恐怖。
 
それを思うだけでぞっとする。
 
生きてりゃ
恥にまみれ、膿もヘドロも吐き通すこともあるだろう。
生きてりゃ、
いいこともあるし、例えようもない哀しみにちぎれることもある。
 
でも結論としておれは生きてる。
 
でも、でも、そんなこんなとりあえず「生きてる」を飛び越して、
ただただ無念を叫ぶこともなく巨人に喰われちまうのである。
 
それでThe END.
 
オレの人生も、チェット・ベーカーの歌みたいに
「born to be blue」かもしんない。
それでもまだ生きてる。
 
だからこう思うことにした。
生きてっるって、最低生きてるって、それだけでも唯一かつ十分な矜持だって。

#433 しんすけsきっちん「ハヤシライス」めしあがれ〜♫

 
好きなことだけしていたい。
そのために、もっと時間をさきたい。
自分の仕事は、自分が選んでしてるものだから、決して嫌なことではない。
仕事が嫌いなわけじゃないんだ。
 
でもそのcoreにたどり着くためには、
周辺部に実はどうでもいいようなことはいっぱいあるし、したくない事柄だってたくさんある。
それはどの分野でもおんなじだろう。
でも、そのcoreにたどり着くまでの、しょうもない用事ごときで疲れ果てて倒れるのなら、
それは本末転倒ってもんだろう。
 
どうすりゃいい?
 
昔は、歯を食いしばれみたいな精神論をさんざん叩き込まれた。
嫌なことも無駄ではない、誰かの役に立つんだ。
先生、あんたたちも弱い人間だったんだね。
おかげさまでなのか、おれの中にも、精神論やら滅私奉公の灯は消えずにくすぶり続けてることも事実だ。
そうかもしんないね。
でも、人生は限りある。
限りある人生を一瞬でも無駄にはしたくないんだ。
 
突如降ってわいた介護保険の補欠の仕事を泣きながらしてます。
明日のために30例の予習をね。
 
日曜から作ってたごはんを昨日はいただいときました。
 
珍しく「ハヤシライス」でしたよ。
 
最初はにんじんゴロゴロカレーを考えていたのだけど、たまには趣向を変えてみたのです。
トマトをふんだんに使ったというルーが売り場に置いてあったので購入したのがきっかけだけど、これが甘いんだわ。
何度も味見してやっぱり「甘ぁ〜い」ので、最後にコーレグース(沖縄の調味料、あのとんがらしが液体の中で揺れてるやつ)で調整しちゃいました。
さつまいも、りんご、みかん、にんじん、たまねぎ、豚肉。
ホントは牛肉とたまねぎがベースなのが「ハヤシライス」らしいけど、甘いカレー的なものの総称がハヤシライスってことにしときませんか。
なるほど、入れた具材も甘めでしたね。ちゃんちゃん。
 
そうそう、DJみそしるさんみたいに、軽やかに作りたいもんだねえ。
 

#432 ♬「リベルタンゴ」と「Fly me to the moon」をやるよ。

 
素敵な人達、大事な人達、大切な人たち。
みんなみんな大好きな人達、そんな人と会いたい。
いや、会ってるよなあ。
 
満月を見たのは病院の帰りだったような気がする。
遠い遠い昔のような気がするのに、つい数日前のことなのかな。もう日が暮れようとしてますね。
 
今日もぐったりしてやっと帰ってきましたよ。北条のピアノのI先生の所に練習に行ってました。
誘っていただいて先生の教室のコンサートにゲストで出演させてもらえることになりました。
むちゃくちゃ嬉しいけどむちゃくちゃ緊張で、今日の日を迎えました。
でも昨日もたらふく食って飲んでグチュグチュになってるんですけどね^^;
先生のお宅で2時間ぐらい練習して、なんとか光が見えてきました。あとは自己練習あるのみですね。
I先生との出会いも、ふるぴーさんの会社の10周年パーティーで、
二人でお祝いに、「赤いスイトピー」をバイオリンとエレピでやったことから関係が始まったので、それも言うなれば本当に素晴らしい出会いです。
1回限りっていうことはよくあることですけど、それが長続きして、そしてまた二人新しいことがやれる(ほんとは胸を貸して頂いてるだけなんですけどね)なんて、ホント素敵です。
こないだは手を抜かないことが一番大事だとblogに書きましたけど、
出会いと冒険を恐れないことも大事ですよね。
たぶん自分に蓋をするのはほかならぬ自分ですからね。
 

#431 だから今日も明日も明後日も、 我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。,at 2018/02/24,night.

えらく、あいだが空いたけど前回の続きの話です。長いです。

 
愛媛大学泌尿器科には5年くらい在籍した。
30代の中盤をそこで費やしたことになる。まあいろいろあった。
医者というのはチーム医療のようであり、個人的でもあるのだなあと、今になって思い返す。
 
まあ、ほんといろいろあったよな。しみじみ。
 
今は、「自分の病院」ということで、病院という「チーム」で物事にたちむかっているので、昔よりももっと「塊でことに接している感」は増している気もする。
でも、振り向くと後ろには誰もいない感じも、常に同時にある。
ほんと併存してるんだ。
だから、自分を、自分を信じられる「自分」を作るために日夜努力はしているつもりだ。
 
それは簡単に言うと決して手を抜かないということだ。
当たり前みたいだけど、何事に関しても、「まあいいや」と思った瞬間から没落ははじまるのだから。
それと病気で休まないことかな。
決して精神的にタフなわけではないので(皆さんは嘘ぉと思われるかもしれないけど)、悩みは多々ある。
でも生死に比べたらそんなもんは取るにたらぬことだ、そう思うことにしている。
 
まあ、たとえおれがこの世から消えたとしても、その事自体も瑣末でしかないのだけどね。
 
なんか話がずれてゆくので元に戻すと、
愛媛大学の5年間でそれなりに医者としても進歩した。
(そりゃそうだよね)
 
泌尿器科って実は「外科」なので、やはり大学病院っていう基幹病院ということもあって、いろいろな手術もさせてもらった。
腹腔鏡手術の黎明期で、静岡に研修にも連れてってもらったなあ。
 
でも、やっぱりそれらは、「大学病院」とか「医局」という「場」に守られた医療だったのだ。
それを開業してから嫌というほど思い知らされる。
「親方日の丸」という言葉があるが、
自分個人が医者としてその頃信じていた「資質」は、実は「愛媛大学に属する医師」としての「資質」でしかなかったのだ。
技術とか能力と、それはまた別の次元において。
開業して「一人の医者」として診療をはじめて、いろんなことに気づいて、うちのめされて、
それで、ややタフになって、自分でイチから作り上げてきたものどもを思うと、感慨深い。
だから開業して、気づいたという点では、開業はプラスだったのだと思う。
こればかりは開業したヒトにしかわからないことですけどねえ。
 
大学勤務だから、教授に言われて(自主的ではありませんでしたねえ残念ながら^^;)研究もした。
バイトとか日常業務とか、手術とかに追われた中で、色んな人の助けを借りたり、論文を図書館で探したり(その頃はまだインターネットの黎明期だった)したなあ。
実験に使われたネズミさんたちにも感謝。
実験の方法を教えてくれた元同級生のS先生にも感謝。
自分の拙いアイデアに具体性を加えてくれた基礎の先生方や、的確なアドバイスをくれた教授にももちろん感謝だ。
 
結論から言うと、執念で「博士号」もとった。
実験だけでなんとなく終わる人も周りにたくさんいた。
自分は開業を決めて、大学を出て、日赤で2年弱の腎臓内科の研修をしながら、その間に英語で論文を書いて、
何回も外国とやり取りをして、やっと採用されたのだった。
アクセプトっていうのだ。
英語でacceptの知らせが来たときには(やはりネットではなく手紙のやり取りだった)、やったねという感じだった。
そして、開業してから審査を受けて、博士号をもらった。
長い年月だった。まさに執念だね。
だから、病院に展示されている「乙種博士」という紙切れが素晴らしいのでは決してない。
それにかけた努力とか執念が、自分の矜持になっている、そのことが素晴らしいのだ。
 
そう思う。
 

 
なんでこんな話になったかというと、
先日の夜の続きになるけど、
アマンダさんと入れ替わりの感じで、かわゆい女の子が二人やってこられたのだった。
あいにくカウンターに空きがなかったので、彼女たちは2Fに上がっていったのだけど、
アマンダさんが帰って、下の席が空いて、彼女たちが降りてきたのだった。
いろいろ話しているうちに、お母さんが大学の泌尿器科に勤められてた、という話になった。
 
で、彼女の名前をかんがみるに、
「ああ、S子さんだぁ!」ってなったのだった。
 
大学の泌尿器科の医局には常勤の秘書さんがひとりはいらした。
自分はその夜、われわれのお母さんみたいに接してくださったS子さんの、まさにお嬢さんと飲んでたのだ。
びっくり。どっきり。わくわく。
なんか胸が熱くなってきたよ。
自分にとっては、一時期ではあるが、
同じ職場と空間と時間をともにしたS子さんの素敵なお嬢さんの日常の片鱗も伺うことができて、
その横のクラスのマドンナの方の絵も描かせていただき、
われわれおっさん二人は天にも昇る気持ちになったのだった。
 
でもこんなことってあるんだね。
 
もしかしたら、今までもそうやって色んな場所で、巡り合うべき必然の方と何気なくすれ違ってるのかもしれないね。
ホント人生って面白いね。
 
だから今日も明日も明後日も、
我々は人生という名の(酒場という名の?どっちだ!)旅を、幾度と無く続けるんですよね。
 

#430 アマンダいわく,at 2018/02/24,night.

 

言葉でしか人間はコミュニケーションがとれないものなんだろう。だからこうやって、くどいけど言葉にして表す。言葉にして残す。
自分だけにしかわからないタームでつぶやく人がいるけど(ツイートでもそれが目的の人はそれでいいんだと思う、でもこれはたぶん自分のための言葉でもあり、10年経ったら自分はもう今の自分じゃないはずだから)、自分は10年経って読み返しても、誰でもが文脈を見てわかるような言葉で、文章というものを記しておきたいと思うんだよ。

だから逆に、くどくどしい言葉の壁を軽々と超えて行ける人は、自分にとってはちょっと羨ましいと思うんだよ。
でも実際そんな人っているんだよね。ほんとおじさんはうらやましいわ。

その夜は男二人で飲んでいた。
7-8人で一杯になるカウンターも男だらけだった。
音楽の練習で結構やりきった我々は、言葉数も少なく、ジャブを放つようにお互いを探りながら、飲み始めていた。
酒は徐々に体に回り、そして休息のタイマーが鳴った。

そうそう、今年から、30分飲んで1時間ブレイクを入れることに決めたのだった。
どうしてそんなことするの?誰か聞かれた。
お酒をやめることはできない。それと同じに大事なことがいくつもいくつもある。それに均等に取りくむためには、二日酔い時間を減らす以外時間を捻出することはができないことが分かったんだ。お酒の絶対量を減らすためには途中でブレイクを入れる以外、愚かな俺では思いつかなかったんだ。1時間やめたあとはいつものように飲むのだから、それって意味があるのかどうか定かではないけど、でも1時間は休む。

閑話休題

そして、カウンターの左端の男性が帰ってからしばらくたって、彼女が一人で入ってきて、僕たちの隣に腰掛けた。
いつのまにか(そう、ほんとにお酒呑みたちの時間はいつもいつの間にかなんだよね)、彼女はマシンガンのように喋り始め、僕らはいつしか彼女の虜になっていたんだ。

僕達は音楽という武器で、お互いのパッションを言葉にしたいと考えている。多分相棒もそうだろう。
相棒はトランペットで、自分はアルトサックスとバイオリンで。
ふたりは貪欲に、もっともっと幅も技術も増やしたいと思っている。
多分僕たちはもっともっと高みに行けるだろう。行けるはずだ。
酒の力を借りてハイになった我々は、そんな夢のような瞬間を共有しながら飲み続けるていたのだった。

話を端折ってしまうけど、そんな流れの中で彼女がこう言ったんだ。
「チャンスは人の形をしてやってくる」って。
思わず相棒に言ったね
「メモっとけメモっとけ」(自分もiPhoneのなかのEVERNOTEにつぶやきました^^;)

この酒場で大将と知り合って、
大将からの紹介で、彼(相棒)が自分がプレイしている音楽の場にやってきて、
そして二人で飲んで、二人で音楽をやることに決めた。
二人で練習して、重い楽器を下げてこの酒場にやってきて、
二人で飲み始めて、そして彼女がカウンターの隣に座った。

それがいつしか、偶然から偶然以上のものに変わっていく。

自分のまだ短い人生を振り返ってみると、ここ数年の間にそういった素敵な出会いがたくさんあるような気がする。
どうしてだろう?肩の力が抜けたせいなのかな?わかるわけないよね。
ただわかるのは人生の可能性を自分の手で有限にしてはいけないってことくらいかな。
どんな年になってもきっとあがき続ける限りは可能性は残されているんだと信じよう。

たとえ、巨人に食われて死ぬとしてもね。

はじまりは、やっぱり、人とこうやって言葉を交わすことが最初なんだ。
SNSやblogでの出会いもあるけど、
酒もあって、美味しい料理があって、この店と大将の醸し出す空気もあって、そして我々だってその場を構成している要素であり、夜の闇があり、そこでマジックが生まれることだってある。
朝の太陽の下でそれらが嘘じゃなかったかどうか決めるのはあとでもいいはずだ。

そう、まさにチャンスは人の形をしてやってきた。

いつだって、今だって。

そしていつものように彼女の絵を描かせてもらいました。
サンクス、アマンダ!サンキュー。

ぶち切れたような文章の終わりですけど、これでその夜の第1弾の話は終わりです。

#429 「ビートルズの優しい夜」小林信彦

小林信彦ビートルズの優しい夜」(S57)という本を何故か再読し始めた。

 

短編集なので、暇がある時に1編ずつ読んで、今日ようやく読み終えたのだった。
ビートルズの優しい夜」(1966)「金魚鉢の囚人」(1974)「踊る男」(1978)「ラスト・ワルツ」(1982)から成り立っている。
そして、ジョン・レノンがチャップマンに射殺されたのは1980年のことだ。
自分はその翌年に大学に入学したのだった。

 

TVの黎明期からその1982年までを、自らのクロニクルのように小林信彦氏は描いた。
今、なぜこの文庫本が脳裏に浮かんだのかは不明だ。
でもそういえば、こんなタイトルの小説があったよな、と、探して、本棚に埋もれているのを発掘したのだった。

そして、小林氏の描いた時代から、今も、我々はこの「狂詩曲(ラプソディ)」を踊り続けている。

 

もう、いい加減、舞台から降りてもいいんじゃないのかい?
毎日、心の奥底でそう呟く男の声を聞く。
肩の力を抜いて、ゆっくり目を閉じて、大きな呼吸をするんだ、それだけでもずいぶん違わないかい?

 

力の抜き方をとっくに忘れてしまった。
酒に麻痺させられて弛緩していると、眠っている時間が、それに近い行為のように思う。
ジョンが歌ってた歌を、時々思い出す。
Stop bleeding now 血が流れるのを誰か止めてくれよ

 

最後のページに「生きながら埋葬されてゆく時代の・・」という言葉が記されている。
もうそんな言葉なんて聞き飽きたような気もするけど、
この4篇のstoryの最後に配備されたこのセンテンスは、やはり今でも、ちょっと胸の奥のしこりを刺激する。

 

力の抜き方を忘れてしまった今では、もう鈍い痛みでしかないけれど・・。

 

 

ビートルズの優しい夜(新潮文庫)

ビートルズの優しい夜(新潮文庫)

 

 

#428 Blue in heavenと中村ハルコさんの写真。

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(写真撮影可だったのでとらせてもらいました)

 

 

目が覚めると午後のだるい光
遠くで羊が草を食んでいる
戦車の砲弾が作ったくぼみに泥水が溜まっている
その水辺で鳥がさえずる

 

死んでいった友達が白いドレスで微笑んでるよ
ここは天国?ここは地獄?
まだどちらにも行けそうもないのでここにいるよ

 

この場所で息をして
この場所で笑って
この場所で泣くんだ

 

そろそろバッカスを呼ぼう
そろそろ火を起こして食事の支度をしよう
夜はまだまだ冷えるから温かいお酒も必要でしょう
ブランケットの中の君の温もりを覚えている

 

あの日
バイバイした君の指は氷のように冷たかった
でもまた
きっと君には何度かは会えると思うんだよ

 

BLUE IN HEAVEN
天国に絡まって
天国にもつれて

 

 

 

 

 


確か、夏(2017.8.20)に、東京都写真美術館に「アラーキー」を見に行ったのだった。
そのときに、併設されていた写真たちの中の少女が目に止まった。
中村ハルコさんというフォトグラファーの写真だった。
”「光の音」より”の写真だ。
この写真をみながら、昨日の夜に描き上げた。
トスカーナで撮られた写真だそうな。
この写真にinspireされてできあがった自分の絵は、この写真からだいぶ離れてしまったものの、なんとか完成したのだった。
そして、
できあがった自分の絵は、
先日も述べたように、もはや自分の絵であってそうではなく、
見るときには、もう自分も一観客としてその絵を楽しんでいるのだった。

今調べてわかったけど、
写真家の中村さんは膵臓がんでなんと44歳で他界されたのだそうだ。
なんてことだろう。
ありがとうです、中村さん。