どう切り出していいのかわからない。
死んだ人のことは、死んだ時にぶわっと思い出し・・というか、
それからは波が引くように引いてしまうことが多い。
でも、何かの拍子でまた思い出すこともあったりしてで、それはそれでいいのかなと思ったりもして、 なんともはや、である。
佐野洋子さんは、 この世に死んだ人なんぞいないと言い切っておられ、
確かに「生きた人が死んだ人を思う世の中」があってそれが死んだ人をいかしているのだと、そのとおりなのだと、おれはそう思 うのだよ。
だからおれの消滅ともに色んな物も消えてゆくんだけど、 それはそれでよろしなのである。
今日、自分の手を随分前に離れていろんな施設をwonderingした末の訃報を聞いた。
おばあさんで、膀胱タンポナーデで、初めは出会ったのだ。
出会ったというのも変な話だが、長年の付き合いとなるとなんだかそんな夢の出来事みたいに思う時だってあるんだよ、医者と患者だって。
何年もの年月を過ぎて、今更、自分の上で看取りたいなどとはいいはしないが、
あのボケたばあちゃんのトークを二度と聞くことがないのだと思うとちょっとさびしい。
でもさびしいとこうやって思うことが彼女をこの世にとどめているのだと思いたいではないか。
ははは、堂々巡りだな。
小説家の稲葉真弓さんの訃報を新聞で知る。
膵臓癌と記されていた。享年64歳。
彼女にとって稲葉さんの表現は唯一無二で、この小説をそれこそ何度も何度も繰り返し読んだのだと記しておられた。
それが、liveということなんだ、またおんなじことを思った。
発表は1992年だとか。でもいつの間にか機会を失い、今回の訃報になったわけだ。
鈴木いづみとあったのは実は、とっくの昔に消滅してしまった国産SF雑誌「奇想天外」だった。
そこで彼女の短編の何とも言えない虚無とそれに裏打ちされた明るさに触れ、しかしその奥のどうしようもない諦念を、たかだか20歳位のおれが理解できるわけもなかった。
自分が唯一保存しているエロ雑誌「ウイークエンドスーパー」にも、鈴木いづみさんはエッセイを書かれていた。
それを目当てに(きわどい雑誌だけど、ほんとですよ)、毎月本屋をウロウロしたものだ。
そういった、空気だけが、時代を蘇らせてくれるというか、脳みその中にスペースを占拠してくれて、保存しておいてくれるのだろう。
だからkindleで手に入れるマンガやらは、多分、自分の中ではやはり、脳細胞の老化とともに消え行くものでしかないのだろう。
利便性とともに失うものもあるってことだ。
でもそれ以上に得るものだってあるんだしね。
なにを言いたいのかわからないけど稲葉さんの死は、そんなことどもを思い起こさせてくれたのだった。
Mさん、まとまりなくってすみません。