だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#450 さよならぼくのともだち 森田童子さんのいない夏がくる・・

 

 

 
おれにはもう思い出せない
ストゥブがわりの電熱器のあの暖かさが
唇の裏のあの血の味も
頭を押さえつけられて飲んだドロの味も
 
おれにはもう見えない
雨の日のクロールのはるか彼方
日傘の下で微笑んでいたはずの君の表情も
 
おれにはもう涙はない
淋しいときに
君の菜の花畑で今更泣いたとしても
それはスポットライトでもなんでもないよ
 
君はそっと忘れてほしいと言った
音も立てずに去ってゆく
君は風に揺られるたんぽぽの種子のように
そっと去ってゆく
 
さよなら僕の友達
さよなら僕たちの友達
 
あなたのいない夏を
僕らは息を潜めて待つことに
もうすっかり慣れてはいるけれど・・
 
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昨夜は飲みながら、逝ってしまった森田童子さんのことを脳裏に浮かべながら絵を描いてたら、
出てきたのは、何故か中原中也の「汚れちまった悲しみに」だったよ。
汚れちまった悲しみは懈怠の内に死を望んだんだねえ・・。
ってことなのかなあ。
ヒトが死んだことに理由をつけられるのは生きた人だけの特権で、
それはとんでもなく愚かしい行為でもあるけど、時にはそれが許される夜があってもいいと思う。
 
先日義理の父の百箇日法要に出向いた。
墓に水をかけて頭を垂れる。数珠を握って手を合わせる。
遠くに海が見える。
向かいの墓には犬の置物とか、ゴルフのクラブの墓石が置かれている。
そうやってヒトは埴輪を作ったのか、そうやって墓石を作ったのか。
 
死んでいったヒトは当然還らない。
だったら残された人はどうして生きていくんだろう。
その人を思うときにその人の死は一瞬でも二瞬でもなくなっている。
それだけで十分だ。
 
電熱器のぬくもりをもう思い出せないとしても、あのヒトの手のぬくもりはもうなくっても、
僕らはまた夏を迎えることができる。
そして僕のいない夏だって全然平気になるんだろう。
それでいい。
それでいいんだよ。
きっとね。
 
だから涙はいらない。
 
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「春爛漫」という昔書いた詩をrefrainしておくよ。2008年だね。
 
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雨にサクラが流れてゆく。
薄い頬の紅が流れた先は、涙の河のよう
 
そして狂おしい女の赤い腰巻からは
白い白い脚が覗いている
 
さて、本日、雨の中を行進した子供たち。
 
晴れやかな笑顔、
モノクロの虹はやがて七色に変わるだろう、
 
でも待てないで、
手をつないで渡ってゆく。
 
今日がサクラには一番いい日ですよ、
男は遠い目で語った。
 
曇天の下、薄い太陽がぼんやりと見える。
大洲城のサクラが川面に色を映す。
 
そして何かを始めたり、何かを終わらせたりするのにもね、
 
今日はとってもいい日です。
 
もちろん死ぬのにも、
 
夜になるとね、サクラの樹全体がざわめくんですよ。
 
夜になるとね、
 
よるになるとね。
 
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森田童子 66歳 心不全で逝く。9歳上の僕らの友達。