「幸福とは、自分の人生が自分の手中にあると感じられること」
という言葉を、新聞の片隅に見つけた。
自分の人生を、自分のものにすること。
それを「是」と言える人は案外少ないんじゃないんだろうか?
今日、
「何もかもが衰えていくんですよ、しょうがないんですけどね・・」
と、背中をかがめて言われた80歳を越した患者さんに、
「小さなことでも夢中になれることをひとつずつ見つけたら、それだけで褒めてあげたんでいいんですよ、自分のことをね」
と話した。
それは自分にも当てはまることだった。
自分で自分を見つけてあげること、その先に、自分の人生を自分の手中にするという鉱脈が眠っているんだと思う。
ともすれば流されてゆく。
流されるのもまた人生だろう。その中にも隠されているものは少なくはない。
でも、自分の意志で、なにかを始めることを止めてはいけない。
そうやって、50年の人生を越した頃からやっと自分の「鉱脈」を探し始めたところだ。
そしてその「鉱脈」とは、
ほとんどが10代の頃にしたかったのに十分できないことだった。
なんだよ、単純な人生だな。
好きなことをでも一生懸命やったらいいと言われて、
10代の自分はできただろうか?
あほみたいに取り組めるのは、やっぱり、腹が座ったここ何年かだからできるんだろう。
そうやって、音楽や、絵を描くことに、向き合っている。
昔小説を書くことに向かい合ってたときも、
今から思えば、むちゃくちゃ自覚的ではなかった気さえする。
だって、その頃は医者になるという一大命題があったからね。
ところで、アインシュタインはviolinうまかったんだろうか?
死んだ親父は、下手だったけど、チェロをplayすることを生涯愛し続けた。
ピアノの先生を呼んで、自宅で手合わせしてもらってた。
ブラームスを愛し、たしか彼が出てくる本も書いてたなあ。
先代の泌尿器科のT先生も、女と酒とチェロを愛していたという。
脳出血やら梗塞を繰り返し、チェロも弾けなくなった先生は、悔しかったろうなあ。
でも彼もきっと彼の人生を手中にできたんだとおれは信じているよ。
おれもおれで、こうやって毎日おれの本を書き続けていこうと思ったんだよ。
命が尽きるその日まで、ちゃんとまっとうできたら嬉しいね。
「ビルロートの生涯」