だからオレは泌尿器科医でおしっことちんちんの医者なんだってば!(2)

生きる速さで書きなぐることができたらいいのだけど・・

#686 「ドライブ・マイ・カー」(「女のいない男たち」(村上春樹))から再読はじめる。

女のいない男たち (文春文庫)

 
ふと思いついて村上春樹さんの短編集女のいない男たちを読み始める。
 
「ドライヴ・マイ・カー」と言う短編をもとに映画が作られ、世界中で注目されているらしい。
そういえば新聞で、スピルバーグ監督が「ウェストサイド・ストーリー」を再映画化したと言うのも見たな。
 
短編小説集である。
短編は時間のある領域だけを切り取って、そこで終わりまでゆくことなく、ちゅうぶらりんのままで読者に投げ出されることが多い。
だってその後も人生やらストーリーは続いていくんだからね。
 
我々の凡人の悪い点は、
何にでもすぐに結論を出そうとしちゃうってなんだろうね。
だから話を切ってしまおうとするんだよね、自分のその一声で。
そこで終わらせようとするその癖は治しようもないし、それでうまくいくときだってある。
でももっとその先の、キミの言葉も聞きたかった夜も或るような気がする。
 
起こってしまった事は起こってしまったことだと、われわれは確かに認識する必要がある
悲しいけれど悲しいこと、悲しいけれどどうしようもないこと、
そして確かに「ドライブ・マイ・カー」の主人公が言うように、
 
照明を浴び
決められたセリフを口にする
拍手を受け幕が下りる
一旦自己を離れまた自己に戻る
しかし戻ったところは正確には前と同じ場所ではない。そういうことなんだろう。

 

そういうことなんだろう。
 
村上春樹さんの小説の説明っぽいというかロジカルな手法は、きっと好き嫌いの分かれるところだろうと思う。
自分ももっとシンプルな光景だけで終わらせたいときがある、
というか、口に出さずに自分の中だけの美しくない光景を排した「綺麗なままのstory」でうやむやにして終わらせたいことがたくさんある。
 
だって世の中は哀しすぎるから。
 
読んでいて最初は久しぶりの比喩とかメタファーに戸惑っていたが、
だんだん読み進めるにつれ、自分は村上春樹の熱心な読者と言うことを再認識させられた。
再認識と言うよりは、村上春樹さんの世界に「やれやれ 無事に」帰ってこれたよ、というのが正直なところだ。
 
そういう場所はたくさんあればあるほど良い。落ち着くのだ
 
だけどそれで終わらせてはいけないこともある。
だから結論を出してしまいがちで、
「次はどうするんだ お前の次の目標はなんだ 休む暇なんかねえよ 死んじまうぞ」とねじまき鳥が騒いでいる。
結論っていうやつはね、そんなに急いでは行けなかったんだよね。
 
「ドライブ・マイ・カー」を読んでそんなふうに少しだけ思う。

#685 細い雨、或る死。

Rain
 
細い雨。
すくなからぬ疾病、少なからぬ死。
あいかわらずそんな場所に佇んでいる。
一歩踏み出せばたどり着けるのは、晴れた空か、またぬかるみか。
それさえも知るヨシはない。
 
年末から正月にかけて。
 
自宅のaudioルームを整理して出たゴミを、今日やっと粗大ゴミで出した。
それでも微々たるもの。
アナログでつながるものがどんどん減っているという現実が、やたらさみしい。
古いBOSEのITALIANOという小型スピーカーは松山のプロベーシストの方がもらってくださった。
ありがたい。
でもまだLPレコードもあるし、どうしようか思案中のLDだってある。
そのLDだって、今は普通の映像端子でしか繋げなくなってしまった(HDMIなんてないよ)。
最後の砦のDVHSデッキが稼働しなくなったので、VHSテープはほぼ処分できた。
学生のとき、生協フェアで買った、
「これはね100年保証します」と言われたカセットデッキも、片方のチャンネルしか音が出ないのに捨てられない。
 
人が死に、灰になって煙になる。
残ったものは全部ガラクタだ。
でも自分にとって思い入れのあるものを、赤の他人がとっとと捨ててくれるだろう。
なにも残らない。
 
だから。だけど。

#684 風が吹いてきた。

wind

おれたちはプロだ。
趣味で仕事してるんじゃない。
悔しい(残念な)思いをしたときには、
なにがいけなかったのか、
たとえこちらに非がなくっても、再び同じ「愚行」(こちらに非がなくてもトラブルなんて転がってる)が繰り返されないように回避策を考える。
 
でも世の中には、そんなことを考えれない人もいる。
そして同じ沼にハマっても、そんな人はああしょうがないなとぼんやり思って日常に帰ってゆくだけだ。
そんな人を何人も(これは大げさだな、何人か くらいかな?)みた。
そこには教科書やらに書かれてるような成長はない。
だから、おれは誰もを、すべての人間を信じてるわけではない。
でもそんな人たちを真っ向からは否定しなくなった。
悲しいなと思うだけだ。
それって受容しているわけではなく、歳をとったっていうことだけがなせる技なのかもしれないな。
 
仕事してると金儲かっていいですねとか言われる。
そうですねえと答える。
でもね、これは趣味じゃない。仕事だ。
スタッフに給与も支払ってる。
高い税金も納めている。
誰に揶揄されるものでもない。
 
開院記念日が、2月1日だった。
まる23年、そして24年目が始まった。
蟷螂の斧とはよく言ったものだ。
 
色んな思いがこうやって錯綜する。
 
でも、風が吹いてきて、
たんぽぽの胞子がふわっと地上から浮遊するようなあんな気持ちを抑え難くなるときが、
ここからおさらばしたいという気持ちが持ち上がるときだってある。
 
でもピーターパンみたいに、浮遊することはもうないな。
たとえ夢の中でもね。
 
誰かのためにはもう残念だけど生きてけないよ。
 
風が吹いている。
 
【追加】
今日はコロナの集団接種。
松前町では第1回目。モデルナを打つ。
一箱に15本入っているのを打っていくのは結構疲れることがわかった。
でも、松前町の健康増進課の皆さんと、スタッフの尽力と、もちろん自分たちの仕事力で、いい感じで乗り切ることができた。

#683 DVD「SION 10 VIDEO」と遠い先輩のこと。

SION

 

 

昨日、夜遅くにSIONのDVD「SION 10 VIDEO」を観る。
1時間位の作品で、インタビューも入っている。
真っ暗の部屋に、四角い画面(昔なのでスクリーン比が4:3とかなのだ)が映し出される。
パンクなSION、松葉杖にすがりついて歌うモヒカンのSIONジョン・ルーリーと「春夏秋冬」のMV、懐かしい映像満載だった。
 
あのとき、リリースされたのは、
SIONがいろんなミュージシャンと1曲ずつやってるCDだった。
 
それを買って、学会のついでだったかな、鳥取のI さん宅に渡しに行ったのだ。
I さんは、愛媛大学を卒業後、郷里の鳥取でを公務員されていた。
自分も知っている方と結婚されていた。
 
いよいよVHSデッキが動かなくなって、
それでテープを整理をしていて、その頃デビュー10年目だったSIONのVHSを眺めながら、
もう一度今更のように観たいと思い、DVDを探したのだった(リリースされたはずだという記憶はあったので)。
ヤフオクで見つけて、負けて、ちくしょうの足でメルカリで購入したのだ。
 
I 稲田さんは、若くして、胃がんで亡くなられた。
もう会うこともない。それから糸はぷつんと切れたままだ。
一度、彼の死を告げるはがきのところに電話にかけたことがある。
誰も出なかった。
それっきりだ。
愛媛大学の文芸サークル「木霊」で少しの間一緒だった。
生まれてはじめての小説を書いた頃のことだ。
呑んで酔って、
「おめえの言いたいことはわかるよ!おーわかる。はじめてだよぉ。」
そう言ってくれた。年下の先輩。
 
彼の書いた「ジングルベルが歌った」という詩の断片を今でも覚えている。
懐かしい。
でもあの頃は懐かしいなんて言うコト自体が敗北だと思ってたよね。
ねえ。
 
 
聖夜(こんや) 爆発しそうだ
 お酒をおくれよ
 お酒をおくれよ
 
拝啓 神様
よろしく神様
 ひどいもんだぜ
 ひどいもんだぜ
 

sion10video [DVD]

#682 極楽浄土(今朝のなぐり書き)

信心して、何度も祈り、最後の最後に報われて、極楽浄土に行けるとしよう。
そこは争いもない穏やかなところで、人々はぼーっと悩みもなく暮らし、
遠くの水の音と、音もなく開く蓮の花と、阿弥陀如来の微笑みで満たされているとしよう。
そんなところに行きたいだろうか?
 
生きて、あくせくして、ああでもないこうでもない、
おれはまだ途上だと言いながら、前のめりに悔し涙を浮かべて、
それでも自分の行けるところはまあこのぐらいだろう、
と息絶える。
 
昔々、starwarsよりずっと前の時代、
お百姓さんが紛れ込んで足軽になって、この伊予の土地に住み着いて、いろいろあって、
オヤジの何千マンの精子の傍らから、粘土細工の人形みたいに生を受けて、
岡山の田舎を中心に、それなりに女の子に恋心いだきながら生きてきたり泣いたりして、
偉そうなことも言ったりして、
SFの語ったり、純文学の真似事をしたりして、
やっと愛媛の大学に拾ってもらって、それからそれなりの紆余曲折があって、
人からは少しはうらやまれる立場だったり、
自分のハエも負えないのに、一丁前に、他人に給料を払う立場だったりして、
それで満足することもあるけど、
やっぱりマアマアかなってところが正直なところで、
お前はほんとに自分の「欲する」ところだけで生きて行けるかと言われても、
いまさら「是」とは天に向かって言わないだろうし、
おいらはやっぱり、大学やら地域医療に物申すわけでもなく、、
やっぱり粛々と自分のちっぽけな「医療」を杖として生きてゆくんだろうとは思う。
 
何が言いたいのかと思うけど、
やっぱり極楽はないんだから、「この世」で「この場所」で、
いけるとこまでいくしかねえよっていうあたりまえのこと。

#681 2022/01/24 night

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家にたどり着いた
晩飯も作った
風呂に入った、犬に餌をやった。 疲れた。 ただ疲れた。
混乱と困惑と。そうなってもその日にやり残したことがないかどうかを考える。
明日になればまた新しいことが、起こってそれに対応していかなければならないからね。
なんだか刹那的な人生のような気もする。しそれが人生のような気もする。 だから色々人は自分に無いものを求めたがる のだろう。
 
晩にエミフルにいったけど、やっぱり 人の数は減っている。駐車場の車の数が 減っているのでそれでわかる。でも売り場では普通に 店員の人は立っている。だってそこは彼らの職場で、生活するために時間を刻んでいる。それだけではないとしてもだ。
食品売り場で生パスタを見つけて これでクリームパスタにしようと 思って 四人前の袋を買って、3人で食べたのでちょっと多すぎたかな。 美味しかった、 美味しかった、美味しかった。その言葉の後に言葉が出てこない 何も出てこない 。
 
3階への 階段を登ってきて、部屋の椅子に座る。 パソコン のディスプレイに明かりを灯す。 今は MacBookクラムシェルモードというやつで、ノートブックは閉じたままでそのノートブックの画像をディスプレイに映してそれで作業をしている。 机に座って作業しているのでなんだか くつろいでいる感じはしない。何が言いたいのかわからない。
 
昨日は1日 DT M(desktop music)をいじっていた。 結局使うソフト何にしようかと思って、 apple に付属しているガレージバンドをいじりつづけていた。 iOS 版の GarageBand はパソコン版のものとは違うのでやはり結局結論としてはパソコンメインでやろうと思った 。StudioOne というものと比較してこちらの方がとっつきがいいじゃんと思いながらも、結局 Apple 信者である自分は GarageBand で行くことにして 、GarageBand で足りないものを Logic Pro X に求めようとしているではないか。
 
ブルーにこんがらがってとボブディランは歌った。
こんがらがって こんがらがって こんがらがりっぱなしだよね 。

#680 友達に会って、「初雪盃」を買って帰る。

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友達に会って、「初雪盃」を買って帰る。
 
もういい歳になってくると、友達と呼べる人というのはどんな人だろうという風に考える。 
友達というのは、利害関係のない人のことを呼ぶのではないかなと最近では思うようになった。 
もちろん人間であり、他者同士であるので、そこには利害関係が生じたり、摩擦があったりすることもあるだろう。 
だけど、なるべくそういうものを、意識して離して通じ合える人を友人と呼びたいなと思う。 
まあ自分が思っているだけなのかもしれないよ、ほんとはね。 

 

まあそんなわけで、砥部に転居したウクレレビルダーのKくんのところまで行ったわけである。 
1Fを工房のようにしていて、壁には何本もの楽器がかかっていた。 
話をして、コーヒーを御馳走になった。 
いろいろあるさ。これからも。 
またお酒も飲んで、一緒にプレイする日だって来るかもしれない。 
 

砥部なので、帰りに、以前もおじゃましたことがある「蔵元」に行って、地酒である「初雪盃」の大吟醸を買って帰る。 
夕食のときに、娘の料理とともに自宅でいただく。 

 

ああ、こんな近くにこんなうまいお酒があって、それを飲めるってなんか幸せだな。 

 

www.hatsuyukihai.jp